2014年11月10日月曜日

ケネス・バーク『恒久性と変化』8

定位における快感原則

 ある意味において、あらゆる定位には快感原則が含まれているが、それは現実原則と対立するわけではない。我々は経験を主に快不快の見込みとの関わりで特徴づける。定位は有用性の枠組みである。「最善の動機」によって自分の振る舞いを説明する人間は、通常、道徳的善が有用性と結びついていると認めねばならない。「善」と「有用性」とが結びつく手の込んだ経路のすべてをここで辿る必要はない。しかしながら、ある社会の最高の美徳がすべての人に行きわたるなら(我々自身である必要はないが)、彼らは人が快適に生きられる世界を作りあげようとするだろう。

 その美徳は次のようなものである。勤勉さ、才能、率直さ、親切、人の助けとなる、気前のよさ、気だてのよさ、寛大さ――つまり、「平和的な」美徳である。それらは我々にとってある種威光を放つものであり、自分の身につけたいと願う。望まれるものであり、称讃されるものである。かくして、我々はそれらを自分自身にも育てようとする。個人でそうした性質を得ることは、集団において好意を得るという点でも有用であり、ベンサムは好意を「恩恵の約束」と呼んだ。いずれにしろ、なぜ心的過程を記述する専門的な用語にごく自然に道徳的言葉が使われるのか察するに十分であろう。それは状況において傑出した位置を占める――それらを自らの行為に当てはめることで、好ましい定位の図式を用いることになる。

 別の言葉で言うと、経験の記号は有用性と損害の検証(利益と危険)で定位づけられる。従って、敵を引き合いに出して自分たちの行為や考え方を称讃する場合、それは現実原則とは異なる快感原則が働いていると説明する必要はなく、現実の測定が最初から快感の検証との関わりにおいてなされているのである。現実とは、物事が我々に、或は我々のためになすことである。快適さや不快の、繁栄や危険の公算である。

 包括的な快感原則のもと性格を定義したとしても、間違っているか不十分であることは確かだろう(ベルの音を餌として条件づけられたニワトリが、罰せられるために走り寄ってくるときのように)。定位の初期において、「現実は違うにもかかわらず」同じ行動を取り続けることは、現実原則と異なる快楽原則が働いているとはまず言えない。定位の図式が認めさせてくれる現実に従っているだけである。そして、ベルが鳴る度に繰り返し罰せられるなら、快感原則そのものがそのしるしの読みを変更するよう導くだろう。

 もし人間が罰せられるにもかかわらず、間違った定位に鶏よりも長く固執し続けるなら、それは、問題そして価値と判断が互いに支え合う広大なネットワークが複雑になればなるほど、再定位の必要を見て取り、それに応じた手段を選択することがますます困難になるからである。初期のやり方で定着した権威が新たなやり方を採用する邪魔をしているのであるから、彼らは訓練された無能力の犠牲者である。また、ある行為が社会的に危険であっても個人には有利で、集団には多大な苦痛をもたらす一方個人は利益を得る愛国主義もあるという事実によって、この困難は増大する。

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