2014年11月21日金曜日

ブラッドリー『論理学』96

 §72.もちろん、これは単なる形而上学だと言えよう。所与は所与であり、事実は事実である。いいや、我々は個的な判断と仮言的判断とを、前者は知覚にかかわり、そこに主張されている要素の存在が認められることをもって区別している。そうした区別は、あまりに微妙な雰囲気のなかに溶け込んでしまうので、無視すべきではある。しかし、私はこの区別を撤回したくはない。これは思考のあるレベルにおいては適正である。論理的探求の通常の目的にとっては、総合的および分析的な個々の判断は定言的であり、ある意味普遍的判断に対立すると捉えた方が便利であろう。

 しかし、論理学の諸原理に更に踏み込み、判断のクラスがそれぞれどのように関連しているかを考えざるを得なくなったとき、上述のような疑問を掲げないとしたら、我々が間違っているのは確かである。我々が区別の基盤をもっていると知っただけでは十分ではない。それが真の基盤であるか尋ねなければならない。それは区別する地点以上のものではないか。それはまた事実ではないのか。概念内容を照らしだす現前の光は、我々がそれを写し取ったときにもその真実性を保証するのだろうか。現前する現象、現象の系列は実際の実在であろうか。そして、いずれの問いの答えも否定的であることを我々は見てきた。感覚に与えられたものを判断においてとらえることができたとしても、我々は失望するだろう。それは自律的ではなく、それゆえ非実在であり、実在はそれを現象の無限の過程において越え、それと共に消え去ってしまう。(言うならば)知覚においてあらわれる実在は、現象でも現象の系列でもない。

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