2014年11月25日火曜日

ブラッドリー『論理学』97

 §73.「それは反省の産物に過ぎない。我々にあらわれる通りのものを事実ととって満足すれば、それを感じたままにしておけば、我々は失望することはない。過去からの宙に浮いた糸によって支えられることもないし、幻影的要素の途絶えることのない関係の消え去りゆく網の目のうちに滅ぶこともない。感覚にあらわれる実在はそれ以上のものではないのである。それは自律しており、個的で完全、絶対的にして定言的である」と言われるかもしれない。ここではこの発言を論駁しようとは思わない。我々は所与が知的な改変なしに与えられたのか、我々に観察し見ることのできるものは我々が既に干渉したものではないのかについて答えるよう求められているわけではない。ここでそうした問題を取り上げる理由はない。また我々は有能な形而上学者よろしく、理性に心酔し、感情を軽侮しているのでもない。失意の感情が感覚の真理に対する反抗の先頭に立つと論じることにためらいを感じるものでもない。ずるがしこい頭に最初のいぶかりの声を上げるのは悩ましい心だった。

 お望みなら、我々が感じる通りの実在が真なのだと言ってもいい。しかし、もしそうなら、すべての判断は間違いであり、あなたの単称判断は眠りにつくだろう。我々のいまの目的ではあなたの主張を認めてもいいが、それが我々への異議として申し立てられているなら、質問を返したい。それがどうしたというのか。そう言っているのは誰なのか。こうした非難をできるほど誰が反省という罪から自由であると自負しているのか。言ったことの結果を考えないような人間は確かにいる。拙劣な分析と独りよがりの形而上学が詰まった本を書く作家もいる。「経験」に情熱を燃やす思想家が自分の一面的な理論に自負をもち、感覚される事実への忠誠心がそれを未消化な反省の結果と区別できなくしていることもある。

 現在我々に仮定され、形而上学が論じるだろうことは、現象とは最終的に我々が考えざるを得ないものであり、我々の思考の最後の結果は真であるか、そこで我々がすべての真を手に入れるかということである。実在にとって確かな根拠となるのは反省の始まりではなく終りである。我々の心はそれ以上のことを決することはできない。実在についての我々の思考は、分析判断のレベルにとどまっている限り批判に耐えられないだろう。我々が信じずにおれないのは、後の、よりよい反省の結果、少なくともこの判断は真でないことが確証されることにある。現象の系列の全体や部分を実在の性質と主張することは間違った主張である。

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