2014年5月9日金曜日

ノスタルジアの電車――侯孝賢『珈琲時光』



苦手という距離感がある。気になる存在なのだが、いざ面と向かうと好きだと擦りよってもいけず、かといって嫌いだと突き放すこともできない。

小津安二郎の映画は苦手である。柳眉を逆立てるという形容がこれ以上ぴったりと当てはまることはないと思われる京マチ子の表情をとらえた『浮草』は大好きなのだが、概して、小津の映画を見ると、好きだと言っていいのか嫌いだと言っていいのか、曖昧な状態のなかに置き去りにされるのである。

侯孝賢も同様で、眼を見張るような部分と、眼が開けておれないような睡魔を交互に味わうのだ。更には、一青窈も苦手である。ナチュラルさを売りにしているボーカリストはどちらかといえば嫌いで、それゆえ一青窈のことも公式的にはあまり好きではないということになるのだが、いざ曲が流れている場面に行きあたると無意識のうちのその糸を引くような声に聞き入ってしまい、公式的意見を否定しなければならないような気分になり、要するに苦手なのである。

さて、小津安二郎生誕百年を記念して侯孝賢が2003年、一青窈を主演に迎えて公開したのが『珈琲時光』である。苦手な三人が一堂に会したこの映画は、しかし、胸をかきむしられるようなノスタルジアを私の内に掻きたてた。それは神田神保町の天麩羅屋「いもや」や、高円寺の古本屋「都丸書店」など、かつてよく通った場所が出てくるからばかりではない。

話らしい話があるわけではない。一青窈演じるライターの陽子は、中盤、自分が妊娠していることを親に告げるのだが、父親が誰なのか糾問されることはないし、出産に向けての不安が描かれているわけでもない。浅野忠信演じる古本屋の主人肇は、陽子に淡い気持ちを抱いているらしいのだが、二人の関係が発展することもない。どうやら陽子は台湾で生まれ、日本で教育を受けた作曲家のことを調べているらしいのだが、その進捗状態が示されることもないのである。

物語上はなにも進行しないこの映画が描いているのは、東京でひたすら電車に乗り続けることなのだ。だが、電車とはいっても、混雑と密閉感とせわしなさが充満した通学や通勤で利用される電車ではない。こうした電車では、目的地に何時までに着くことに我々は拘束されている。映画のなかの彼らが電車に乗るのは、朝でも夜でもない。映画にはまったくといっていいほど朝と夜があらわれない。

時間はいつも昼下がり、やや傾きかけたオレンジの色味のついた陽光は永遠に続くかのようであり、そのなかを電車が走るのだが、それはまさしく私の東京経験でもある。都市のなかにもぐり込むとは朝晩の表通りの雑踏で人波に押し流されるよりは、放恣な姿をさらしている都市の昼下がりのなかをぶらぶらすることで、そのいつ終わるともしれない電車の時間は、いつかあったかもしれない昼下がりの電車と容易に結びつき、ノスタルジアを掻きたてる。


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