2014年5月23日金曜日

ブラッドリー『論理学』34

 第一巻判断第二章判断の仮言的定言的形式から。

 §8.しかし、もし判断が二つの観念を結びつけることにあるなら、我々はこうした場所に逃げ込めない。この点を明瞭に理解すべきである。観念は普遍的なものであり、それによってなにを言おうとしぼんやりと意味しているにしても、我々が実際に表現し主張に成功しているのは、まったく個的なものではない。感覚の分析判断をとってみよう。我々に与えられる事実は一つしかないもので、唯一無比である。しかし、我々の用語はすべて一般的で、述べられた真理は他の多くの事例に当てはめることができる。「私は歯が痛い」では、私も歯痛も一般的なものである。現実の歯痛は他のいかなる歯痛とも異なっており、現実の私はまさしくこの歯痛を感じている私自身である。しかし、私が主張している真理は、異なった私の異なった歯痛すべてについて真であるし、これからもそうであろう。いや、「私は歯が痛い」というのは、他人の歯痛でも同じように真実で、「そんなことはない、私こそ歯が痛い」と言われることもあり得る。元々の発言に「この」、「ここ」、「いま」などをつけ加えても無駄なことで、というのも、それらはみな普遍的なものだからである。その意味が無数の例に敷衍され用いられるシンボルである。

 かくして、判断はある種のものについてはそれがなんであっても真となろう。しかし、もしそうなら、それは実在についての真とはなり得ない。というのも、実在は唯一無比のもので、一つの事実であって、ある種のものではないからである。「あの枝は折れている」、しかし折れている枝は他にも沢山ある、「この道はロンドンに通じている」、そうした道は何百とある。「明日は満月だろう」はどの明日かを知らせてくれない。将来にわたって、次の日が満月になる日には常に真である。こうして、現実の事実について言明することにことごとく失敗しており、我々は代わりに別のなにかを言明している。すべてにおいて真実であるものは、この一つを表現しない。主張は永久に形容詞に固着していて、実体には到達しない。支えのない形容詞は宙に浮いている。その現実とのつながりは仮定されたものであって、肯定されるものではない。判断が観念に制限される限り、事実への参照は言外の意味にとどまっている。それは肯定判断の外側で仮定されており、判断は我々が隠されていた条件によって性質づけするまでは厳密には真ではない。そのままでは、単称命題としても間違っているし、厳密な普遍としても誤っている(以下§62参照)。

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