2014年5月24日土曜日

幸田露伴『七部集評釈』26

冬枯わけてひとり唐苣  野水

 冬枯れは冬になって野のもの田のものが枯れたことをいう。唐苣は?菜で、生で食べることも煮て食べることもあるが、葉をとるとすぐにまた生えてきて、四季いつでも新鮮なものを得られるので、不断草という俗称がある。

 一句の意味は冬枯れを分けてひとり唐苣を採るとも解釈され、また、冬枯れ分けてひとり唐苣の存するとも解釈される。曲齋は「苣摘む人を見て、茶人とはひどい物好きだ、ありもせぬ苣をたずねて雨も厭わないと噂するようだ」と解釈しているが行き過ぎた感がある。前句は詩客、この句は茶人ではあまりにうるさすぎる。またありもせぬ苣をたずねるというのも心得がたい。苣は山野自生のものだけではなく、田圃に種をまくものなので、あるかないかは自明であり、初茸や松茸を採るのとは異なっている。

 ここはただ、唐苣と言い放った語気の強弱を考えて、唐苣が主であるか客であるかを考えるべきである。人が一人で冬枯れを分けるのか、苣だけがひとつ冬枯れを分けて立っているのか。語の理解からいえば、どちらも通ずるが、気味合いからいえば、ひとり苣の冬枯れに分けてあるとする方が優れているだろう。

 杜甫に序文も長い「種萵苣」という長篇があり、萵苣を植えたのに萵苣は生えず、播いてもいない野が茂ったのを嘆いたものがある。これを俳諧にして、反対に、野草などが冬枯れで見えなくなり、不断草だけがあるのをいったものか。唐詩とこの句に関係があるかどうかはわからない、ただこのことを知って句を味わえばより面白い。前句、前々句、前々前句、人事に関することが甚だ多く、ここで時雨に冬枯れの取り合わせ、冬の日の景物だけを純粋に出すのも、目先が変わっていい。

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