§6.より一般的な考察でも、恐らく我々はこの結果を早めることにしかならない。我々の外部にある事実は、我々のなかに真理という形で通る、あるいは忠実な鏡に自分の姿を映し出すという常識的な考えは、最も単純な考察によって揺さぶられ、混乱させられる。否定的な判断で主張されている事実とはなんだろうか。あらゆる否定において私は事物の世界に実在の対応物を見つけださねばならないのだろうか。論理的な否定において事実に対応するようなものがなにかあるだろうか。仮言的判断をもう一度考えてみよう。もしなにかがあれば、それからそれ以外のなにかが続き、そのどちらも存在しなくなる、この発言は間違いだろうか。事実があってもなくても真実だと思われるが、もしそうなら、この発言が主張することのできる事実とはなんだろうか。選言的判断もまた我々を混乱させる。「Aはbまたはcである」というのは真か偽に間違いないが、いったいどうしてある事実が「bまたはc」というおかしな曖昧さで存在することがあろうか。我々の「または」に答える具体性を見いだすことはほとんど不可能であろう。
こうした難問があまりに技術的で、無理に探し出してこられたものに思われるなら、より明瞭な例を取り上げてみよう。我々は過去や未来のことを気ままに話しているが、それは実在として存在しているのだろうか。あるいは、ごく一般的な定言的肯定判断「動物は死すべきものである」を取り上げてもいい。はじめは現実に密着しているように思われる。事実の接合が観念の接合とまったく同一であるように思われる。しかし、経験は、もし観念が形容詞的なものなら、この場合ではあり得ない、と我々に警告を発するだろう。納得できなければ、続けてみることにしよう。存在する動物は実在するものなので、「動物」は恐らく事実に対応しているように思われる。しかし、「動物は死すべきものである」で、我々が語っているのは存在している動物だけだろうか。我々はこれ以後生まれる動物も確実に死ぬということを言おうとしているのではないだろうか。実在の事物の完全な収集は、もちろん、実在の事物そのものと同数の事実であるが、未来の個体となると困難が生じる。それは別としても、一般的に、心のなかで完全な収集をすることもほとんど不可能である。「動物であればみな死ぬ」というのは、もしなにかが動物であれば、そのときそれは死すべきものである、ということを意味している。この肯定判断は実は仮定に関するもので、事実についてのものではなかったのである。
普遍的判断において、判断が表現する形容詞の総合が現実の存在に見いだされることは我々がしばしば見てとることである。しかし、判断はそう言いはしない。それは単に我々自身の個人的な推測である。それは部分的には事例の性質からくるものであり、部分的には我々の悪しき論理学の伝統からくる。判断において結びつけられた形容詞は、存在する事物の形容詞ととることができるために、我々は自然にそれが当然のことだと思ってしまう。第二に、主語について「すべて」とつけ加えることは常に曖昧さを生じさせる。我々は普遍的なものを「すべての動物」という具合に書き、それをもって現実のそれぞれの動物、あるいは存在する動物の総計を意味させている。しかし、これは「ABCはそれぞれ死すべきものである」以上に普遍的な判断というわけではなかろう。そして、我々はそうしたことを意味しているのではない。「すべての動物」と言うときに、集合のことを考えているにしても、我々は一瞬でそれを完全に想像することは決してできない。我々はまた、「これ以外に動物がいるとしても、それもまた死すべきものである」ということを言おうとしている。普遍的判断において、我々は決して「すべて」を言い尽くすことはできない。我々が意味しているのは「そのうちのどれか」、「どれであれ」、「いつであれ」ということである。しかし、それらには「もし」が含まれている。
簡単な観察によってもっと簡単にこのことを見て取れる。もし現実の存在に関する主張がなされているなら、判断は存在と食い違うときに間違うこととなろう。だがそれはあり得ない。あらゆる動物が死に絶えたときには、死すべきものというのは誤った性質づけとなり、動物が再び存在するようになるとそれが再び真となる、というのでは運任せの主張だということになろう。こうした事例は存在するし、そこにはどんな疑いもあり得ない。「この土地に侵入したものは罰せられる」というのは、約束事であると同時に予言であることもある。しかし、それは予言しようとしているのではないし、誰も侵入するものがいなくとも、発言は真でありうる。「あらゆる三角形には二直角分の内角の和がある」というのは、もし三角形が存在しなくとも、滅多に偽になることはなかろう。もしこれが奇妙に思われるなら、シリアゴンの場合を取り上げてみよう。いまこの瞬間に誰もシリアゴンのことを考えなかったら、シリアゴンに関する発言は真であることをやめるだろうか。そんなことは言えないにしても、ではシリアゴンはどこに存在するのだろうか。確かに、いまこの瞬間に実際の存在として呈示できないような観念を結びつけた科学的命題が存在するに違いない。しかし、それらを生みだす科学が存在しないからといって、判断がそのこと自体で非実在で間違ったものだと主張できるだろうか。
かくして、普遍的判断は常に仮言的である。それは「あるものが与えられれば、そのときこうなる」ということ以上のことは言わない。真理は事実に関する言明をすることができない。
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