§4.現実と真理との対象比較は、疑いなく、究極的な原理を含むものである。事実とはなにかを探求することは、同時に形而上学への旅路につくことであり、その終着点にはすぐに着けるものではない。いま現在の目的のためには、我々は常識からさほど遠くないレベルで問題に答えねばならない。一般的な見解で、多分我々の多くが同意するのは次のようなことだろう。
現実とは、あらわれにおいて、あるいは直感的知識によって知られるものである。我々が感情や知覚において出会うものである。また、それは空間と時間において生じる出来事の系列にあらわれる。それはまた、我々の意志に抵抗をする。事物は、ある種の力、強制力をふるい、必然性をあらわすときに実在する。簡単に言うと、行動し、自律した存在である。この二つの特徴はつながっているように思われる。空間や時間、あるいは両者の系列を変えることによらない限り我々は行動について知ることがない。恐らく、行動なしにあらわれるものは存在しないだろう。そして、誰でもが申し立てることのできる最も単純な考えを言葉にすると、実在は自律した存在である、となる。別の言い方をすると、実在は個的なものである、となる。
こうした観念を体系的に考察するのが形而上学の仕事である。ここではそれをひとまず預け、一般的な誤解を指摘するに留めよう。「実在は個的なものである」というのは、実在が抽象的な単一物であるとか、単なる一個物であることを意味すると考えるのは誤りである。内的な多数性は個的であることを排除しないし、ましてや他のものを排除する関係に立つ自律した事物であることを排除しない。この意味において、形而上学は、一個物が自律した存在から最もかけ離れたものであることを証明できる。個的なものは、単なる個物からは遠く、その内的な多数性とは対照的に、真の普遍である(第六章参照)。これは逆説ではない。我々は実在をある瞬間、ある場所を越えて存在するものとして語り、信じることに慣れている。そうした実在は、異なったとき場所でも同じままにあらわれる同一性と言えよう。それゆえ、真の普遍と言えよう*
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