第一巻判断第二章判断の定言的仮言的形式から。
§2.より重要度の低い難点を一緒に扱うことにしよう。「四角の円は不可能である」というのは、四角の円の現実の存在を肯定しているのではないと言われる(ヘルバルトI93頁)。しかし、あらゆる場合において我々が文法上の主語の実在を肯定するのだと主張しないなら、この反対は見当違いである。そして、明らかにこれは常に我々が肯定しようとしていることではない。「幽霊は存在しない」、「この考えは幻である」といった例も同じように扱うことができる。これは最初の形式とは違うし、実在をあらわす命題をでたらめにつなぎ合わせたものでもない。しかし、あらゆる命題において、意味の分析をすると、なにか別のものの実在が肯定されたり否定されたりしているのがわかる。「空間の性質は四角と円とのつながりを排除する」、「世界には幽霊が存在する場所はない」、「私はある考えをもっているが、それが指し示す実在とはその意味とは別のものである」--こうした翻訳を最初の例に対する攻撃への予備的な答えとすることができる。次に、ヘルベルトが「ホメロスの神の怒りは恐ろしい」(I.99頁)といった言葉で責め立ててきても、我々はこうした武器に譲歩する必要はない。ホメロスにおいてはそうなのである。確かに詩は、確かにある種の想像力は、確かに夢や幻覚は、確かに我々の言葉や名称より多くのものはある種の事実なのである。こうした異なった秩序にある存在の区別というのは容易なもので、決して混同するべきではないし、自家撞着はこうした反論を熱心に行なう者の方にある。
更に、この誤った議論が繋辞にまで及ぶと、同じ誤解が知らず知らずのうちに繰り返されるのを我々は見ることになる。我々が性質づけをするときには、判断を越えて存在し、我々の頭のなかでかあるいは外でか、(どのような形であれ)実在するものを性質づけする。こうした意味において、我々はそれは「存在する」もの以外をあらわすことはけっしてでき「ない」と言わねばならない。
0 件のコメント:
コメントを投稿