2014年5月14日水曜日

晴朗なる穀潰し――武林無想庵



ピュロンはアレクサンドロス大王のインド遠征に同行し、裸の行者たちに出会ったことに決定的な影響を受け、自らの哲学を形成したという。その中心にある考え方は、判断の保留(エポケー)である。それ自体で美しいもの、醜いもの、正しいもの、不正なものは存在しない。それらは時代や土地によって異なる法や習慣のもとで、美しかったり醜かったり、正しかったり不正だったりするにすぎない。判断はなんら根拠のないものを権威づけることでしかなかったから、ピュロンは美醜や正不正といった価値判断は控え、何事であろうともあるがままに受け入れ、それらを篩いにかけないようにした。

判断は整序された世界をつくりあげていくことでもあるから、それを保留することは混沌と直接的に向かいあうことでもあって、それなりの心構えが必要とされる。ある航海中、船が嵐に巻き込まれ、乗客が顔色を失っていたとき、無心に餌を食べ続けていた子豚を指して、賢者はこのように心の乱されない状態(アタラクシアー)にいなければならない、と言ったが、そうした心の乱されない状態こそが判断保留を可能にするとも言える。

ピュロンは懐疑論の祖とも言われるが、後の認識論者のように、真理の不可知性を論ずるというよりは、生の様態と関わる限りにおいての懐疑だけが問題になっているように思える。「ピルロニストのように」を書いた武林無想庵の場合はどうなのだろうか。

法や習慣の産物にすぎない社会的価値に対する懐疑には事欠かない。だが、それは心の平安どころか、心に終わることのない駆動をもたらすのだ。彼の生活はと言えば、鵠沼の旅館に陣取り、特に原稿を書くこともなく朝から酒を飲み、人妻との逢瀬を繰り返すものの駆け落ちにまでは踏み込まず、旅館の女中や同宿している女の小説家やその友だちをからかうようなどうでもよい会話を繰り返すだけの低回に終始している。

そんな有害無益な自分を無想庵は「穀潰し」と称するのだが、それにいじけるわけでもない。むしろ、そこから懐疑による運動が始まるのである。たしかに自分は社会になにももたらしているわけではないからいわゆる穀潰しに違いない。だがそれは社会を標準としたときの話だ。自己を標準としたとき、宇宙のものすべては私が生存を享楽するために存在しているのであるから、私は享楽したいだけ享楽して死ねばいいだけのことになる。こんな背反した結論が出るのも、もともと仮設の中心などない宇宙に無理に中心を置いた結果である。しかし、そうした仮設なしでは考えることはできない。だが、人は考えるために生きているのではない。どんな仮設も信じない理由がある、と結論こそはピュロンに似るが、無想庵はそこに安泰することはできず、低回した生活のなかでいくどでも穀潰しだという思いに立ち返るのだが、なぜかいつも明朗さを失わないのである。

切羽詰まった状態で東京行きの列車に乗っても、乗り合わせた美女をじろじろと観察して細君か妾か推測し、東京へ出たって用などないのだといいながら、銀座の天金という天麩羅屋に入ると、腹のすいたときには天麩羅に限る、と尻尾までムシャムシャと一匹平らげ、この店は「社会主義の行われる世が来たら、さしずめ天麩羅のスペシアリテを代表する一般市民の食堂となって、このままに残り得る家だ」と思いながら二匹目を食べ、「天麩羅と蒲焼と弥助とを考えないで、又鮪のさしみと海苔と佃煮とを考えないで、東京市民に社会革命を実現しようと企てる位愚な事はない。凡ゆる東京のプロレタリヤが、挙って好む食物をば悉く、一般大衆の手に収用して国有化して了う事から始めなければならない。食物から衣服だ。衣服から住宅だ。一切の衣食住を大衆の手に」といったことを思いながら三匹目を食べるのである。

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