§3.しかし、ヘルバルトは、後で見るように、そう簡単に片付けられはしない。彼は、判断が事物に関するものだという常識的な教義を無批判に受け入れ、事物とは言葉ではないという発見に驚き、繋辞の本性についての言語学的啓示と思われていたものにひれ伏した最初の人間ではなかった。判断が事実を肯定するものであることを否定したとき、彼は十分に自分の立場を知っていた。文法上の主語にはなんの謎もなかったが、真理と観念の本性に関してはすべてが難解だった。我々が判断について反省すると、まず最初に、もちろんのこと、我々はそれを理解したと思う。それは事実に関わる、というのが我々の確信である。しかし、それはまた、観念にも関わることを我々は見る。この段階では、問題はまったく単純なように思える。我々は心のなかに観念の接合や総合をもっており、この接合は外側にある事実の同じような接合を表現しているというわけである。真理と事実とは、かくして、一緒に与えられるもので、いわば、異なった半球にある、別種の要素をもった同じものである。
しかし、より以上の反省は、我々の確信を霧散させることになる。判断は観念の統合で、真理は判断以外の所では見いだせないことを我々は見た。それでは、観念はどのように現実と関係するのだろうか。それらは同じように思えたが、明らかにそうではないのであり、その相違は矛盾にいたる先触れとなっている。事実は個別的で、観念は普遍的である。事実は実体をもち、観念は形容詞的である。事実は自律し、観念はシンボル的である。これは、観念は事実がそうであるようには結びついていないことをあらわしていないだろうか。観念の本質は、考えれば考えるほど、現実からますます離れていくように思われる。そして、我々はなにかが真である限りにおいて、それは事実ではなく、事実である限りにおいて真ではあり得ない、という結論に直面する。同じ結論を別の形で言うこともできる。定言的判断はある事実が肯定されたり否定されたりする実在に関する主張である。しかし、判断にそうしたことができないのであれば、結局すべての判断は仮言的だということになる。それはある仮定に基づいて真なだけである。S-Pを主張するとき、私はSあるいはP、あるいはその総合が実在であることを意味しているのではない。事実における統合に関してはなにも言っていない。S-Pの真理で意味されているのは、もし私がSを仮定するなら、その場合私はS-Pを肯定せざるを得ない、ということである。こうした意味において、あらゆる判断は仮言的である。
ヘルベルトのよって遂行されたこうした結論はその前提からの帰結として抗うことのできないものだと思われる。しかし、その諸前提が適正ではない。前の章で見たように、判断は諸観念の総合ではあり得ない。ここでしばらく中断をして、この誤った教義の帰結について述べたいと思う。判断が諸観念の統合なら、定言的判断は存在できない、ということを明確に見てとることは、論理学の理解にとって非常に大きな一歩である。次のセクションでは、この点を容易にわかるような形にしてみたい。
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