第一巻判断第二章判断の仮言的定言的形式から。
§7.しかしながら、この結論は容易に持ちこたえることができない。というのも、もし真理がそのようなものであったら、あらゆる真理は偽と大して変わらないものとなってしまうだろう。我々は定言的判断をそう簡単にあきらめることはできない、というのは、もしそれが失われると、全てが失敗してしまうからである。探求を続け、どこにも定言判断は見いだされないのだろうか、という疑問を持ち続けることにしよう。見いだすことができるようにも思える。普遍的判断は、個別的な実体ではなく、形容詞のつながりについて言うために、仮言的なものだった。しかし、単称判断では事態は異なるだろう。定言的に肯定する主語が個的なものであるか、個的なものの集合であるとき、その真理は事実を表現する。ここには単なる形容詞や仮定は存在しない。
これらの判断は三つの大きなクラスに分けられる。この区別は以後非常に重要性をもつこととなろう。(i)第一に、私がいま知覚し、感じているもの、あるいはその部分についての判断である。「私は歯が痛い」、「狼がいる」、「あの枝が折れている」。これらにおいて我々は単に与えられたものを分析しているに過ぎないので、これを感覚の分析判断と呼ぶことができる。(ii)それから、感覚の総合判断があり、いまここで直接に知覚してるのではない時間空間内の事実や事物の性質について言われる。「この道はロンドンに通じている」、「昨日は雨だった」、「明日は満月だろう」。これらは与えられたものを観念的構築を通じて敷衍しており、後に見るように、すべて推論を含んでいるので、総合的である。(iii)三番目のクラスは、時間においては決して感覚されない出来事を扱うものである。「神は霊である」、「魂は実体である」。我々はこうした判断の正当性を好きなように考えることができるし、それを形而上学の問題として認めるのを拒否することもしないこともできる。しかし、論理学においては、確かに、それはある場所を占めているに違いない。
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