キリスト教の楽園観念には山が存在しない、ということをモース・ペッカムの『悲劇的ヴィジョンを越えて』で読んで、ちょっと不意を突かれたように感じた。完璧な形態とは球であって、山はその完璧さを乱すものでしかない。人間の身体との比較で類推すると、山は地球の皺と考えられる。皺は衰えであり、老化であり、衰え老化するものは死すべきものであるから、完璧である楽園には存在しないというわけである。
それゆえ、山は醜く、人間の罪のしるしでもある。山が宗教的な畏怖をもって、崇高な美しさをもつものと受け取られるようになったのは、ようやく十七世紀の終りころのことだという。このことから思いおこされるのは、『荘子』の第七、応帝王篇の最後にある次のようなエピソードである。
南海の帝を儵(しゅく)といい、北海の帝を忽(こつ)といい、中央の帝を混沌(こんとん)という。
あるとき儵と忽とが、混沌のすむ土地で出会ったことがある。主人役の混沌は、このふたりをたいへん手厚くもてなした。感激した儵と忽とは、混沌の厚意に報いようとして相談した。
「人間の身体にはみな七つの穴があって、これで、見たり、聞いたり、食ったり、息をしたりしている。ところが、混沌だけにはこれがない。ひとつ、穴をあけてあげてはどうだろうか」
そこでふたりは、毎日一つずつ、混沌の身体に穴をあけていったが、七日目になると混沌は死んでしまった。(森三樹三郎訳)
儵と忽は、ともにすばやい、たちまちの意味で、「機敏で利口なもの、または早合点をするものの意が寓されているのであろう」と注釈されている。森三樹三郎の解説にある通り、混沌とは自然の象徴であろう。穴を開けるという行為は自然の文明化であり、儒教を暗に揶揄しているとも考えられる。もちろん、西王母が住んでいるとされる崑崙などに見られるように、中国では山は神的なものだったが、平滑な表面に傷があることが過ちや罪の結果であることは共通している。
ところで、混沌と道はどんな関係にあるのだろうか。「ただ道に達したものだけが、すべてが通じて一であることを知る。だから達人は分別の知恵を用いないで、すべてを自然のはたらきのままにまかせるのである。庸とは用の意味であり、自然の作用ということである。自然の作用とは、すべてを通じて一である道のはたらきである。すべてに通じて一であるものを知るとは、道を体得することにほかならない。この道を体得した瞬間に、たちまち究極の境地に近づくことができるのである」(第二 斉物論篇)などといった文章を読むと、道と自然とはほぼ同じものであり、それゆえ混沌とも同じものであるとも考えられる。だが、すべての根源である道が南北の帝にはさまれた三人目の帝であるに過ぎず、七つの穴を開けられたくらいで死んでしまうのも奇妙な話である。
混沌は第十二 天地篇にも登場する。孔子の弟子の子貢が、旅先の南方の楚の国から帰る途次、畑仕事をしているひとりの老人に出会う。老人は井戸のなかに入って瓶に水を汲み、畑に注ぐことを繰りかえしている。子貢は水を汲むのに機械を用いることを勧める。老人は、機械に頼ると、機械に頼る心が生じ、自然なままの純白の美しさが失われると反駁し、子貢が孔子の弟子であることを知ると、つまらない教えを棄て去らねば道に近づくことはできぬ、と一喝する。
茫然自失となった子貢は魯の国に帰ると、老人のことを孔子に話した。孔子は、その老人が少しばかり混沌氏の術を生かじりした程度の人間だと見破る。そして、「もし真に混沌氏の術を学びとって、一点のくもりもない澄みきった心のままに素の境地にはいり、いっさいの人為をすてて朴の状態にかえり、自然のままの性や心を自分の身にいだいたまま、世俗の世界に遊ぶものがあったとしたら、お前はもっとびっくりしたにちがいない」と語る。もとより、孔子が実際こうしたことを言ったのかどうかは疑わしいが、機械や儒教的な礼学を嫌ってあえてそれを避ける時点で人為的なものが混じり、自然からは離れてしまうということだろう。
道を世界の根本原理だとすると、中央の帝であり、叡智の持ち主であるらしい混沌とは、道を体現した人物を寓したものだと言えるかもしれない。そのため死ぬこともありうるわけである。しかしながら、儵と忽が開けた七つの穴が目、耳、鼻、口を、つまりは人間性や文明をあらわしており、それらが混沌を死に至らしめたとしても、道家の思想は人間性や文明を排除し、始原的なカオスに立ち戻ろうとするわけではない、と『初期タオイズムの神話と意味』のN・J・ジラルドーは述べている。
道が永遠に「死滅して」は「生成する」連続的創造の観点からすると、タオイストの目標とは最終的な結末として原初の状態に立ち帰ること、世界の創造以前にあった無時間的な無のなかで消滅してしまうことにあるのではない。むしろ、道のあり方に共感するタオイストたちは、カオスやコスモスどちらかに結末があることを拒否しなければならない。真の生を生きるには、物事の自然なあり方、絶え間なく循環するカオスと世界の再創造との相互作用に従わねばならない。カオスは世界の根源であり、根底でもある。しかし、より重要なのは、人間の生の充実とは、カオスとコスモス、無と存在を同時に奉じ、原初と回帰との永続的な円環を生きることにしかない。文化的英雄である忽と儵の失敗とは、堯や舜と同じく、カオス、自然、あるいは原始的文化が文明によって永遠に取って代りうると信じたこと、あるいは、コスモスが周期的に戻ってくるカオスに常に依存しているわけではないと信じたことにある。別の言い方をすれば、タオイストの見地から見た儒教の罪とは、生を永遠の回帰ととらえる神話的ヴィジョンをより歴史的な、漸進的な文化の発達という概念に取って代えたところにある。
だが、カオスとコスモスの永劫回帰というこの考え方は、神話的祖型や神聖なものへの周期的な回帰と近代になって顕著なものとなった歴史主義とを対峙させるエリアーデ的な考え方が色濃くあらわれているのと、カオスとコスモスとが共存する調和的な生を理想とするところなど、やや優等生的だと思われなくもない。
道家思想をある意味エコロジカルな平衡を目指すものと見なすよりは、道とは表象も言語化も不可能な不気味でリアルな実質であり、石川淳が書いているように「仙人にもいろいろあつて、張道陵は邪法の魔を降し、東方朔は漢王の宮に遊び、許宣平は南山の奥に隠れ、林霊素は宋朝の政を扶け、左元放は梟雄曹操を翻弄し、彭祖は女房を四十九人取りかへるなど、地上に於ける出没ぶりは多様」(「張柏端」)であり、その多様な人間のなかにはこうしたリアルな実質に触れる者がいるのだと、また多様な自然のなかには「玄牝の門」のようにそんな実質が剥きだしになった裂け目があるのだと考えた方が世界はより驚異に満ちたものとなるように思える。
ペッカムの『悲劇的ヴィジョンを越えて』は、「十九世紀におけるアイデンティティの探求」と副題がついている。十八世紀は啓蒙主義の、理性の時代であり、極端に言えば、神なしでも理性があればやっていける、より穏やかには、理性の対象となるものの拡がりは、神の創造の広がりと最終的には一致するのだとも考えられるようになった。
しかし、道徳の問題については困難な諸問題が噴出したと言っていい。教会の権威に頼らない以上、自ら道徳的行為ばかりでなくその根拠をも示さねばならない。たとえば、自然が神の創造したものであり、それに倣うのが正しい道なら、天変地異が人間の営みなど吹き飛ばしてしまうように、力をもった人間が弱者をなぎ倒して構わないというようなサドの登場人物の論理も生まれてくる。
いくつかの解決策が提示された、とペッカムは言う。第一に、宇宙的保守主義とでもいうべき立場がある。社会は自然の産物であり、社会が定め制定する慣習もまた自然なものである。であから、殺人を犯すのは悪いことであり、殺人者を絞首刑にするのは正しい。道徳の仕事とは、現にある通りの慣習に我々を順応させることにある。この立場の弱さは、慣習や法の首尾一貫した構造を具えているような社会などなく、多様な社会が多様な慣習をもっていることにある。
第二の解決策は、もっとも頻繁にあらわれるものを平常だとし、平常なものが自然であり、自然なものが善なのだとする。もっとも共通の慣習、合意が善である。しかし、ここにも弱点がある。ある時代、ある社会において統計的にもっとも頻繁にあらわれるものが、別の時代や地域では異常なものであるかもしれない。泥棒の村では正直者こそ異常となる。
第三の解決策は、支配的なものではあるが、もっとも危険なものでもあって、自然に等級をつけようとする。悪そのものは存在しない。だが、よりよい行動というものはある。知性や知識を用いれば、自然の法則によりよく適合した行動が理解される。人間は社会的な動物なので、殺人よりはひとを大切にすることの方が自然である。人間の無知につけ込み、無知のままにとどめておこうとする専制的な支配よりは、社会的な調和のなかで生きる方が自然である。教育が人の悪い部分をすべて解決する。つまり、人間は完璧になりうる。しかし、完璧になるには、その妨げとなるものを破壊しなければならない。目的が善であり自然なら、その目的に達するための手段ももちろん善である。フランス貴族が完璧な社会をつくりあげるのに邪魔なら、皆殺しにすればいい。こうした解決策に従うなら、どれだけの厳格さをも振るえるし、揺らぐこのない正当性という幻想にいつまでもとらえられている。
どの解決策も満足するに足りない。また、理性によって世界を解釈していこうとするより限定された哲学的な合理主義にしても、世界の事象に合理的な根拠などななく、根拠と思っているのはこれまでもそうだったから次もそうであろうと思う信念でしかないことをあらわしたヒュームの懐疑主義にまで至ってしまった。その結果、人間は神にも理性にも頼り切れない混迷のなかに入りこんでいく。
吉田健一などの史観によれば、十八世紀は理性の偉大な世紀であり、十九世紀はヨーロッパが自分の姿を見失い、衰弱に陥っていた。十九世紀末にいたって、ニーチェやワイルドの登場によってようやく西欧はおよそ一世紀にわたる衰弱から立ち直るというのだが、当然のことながら、衰弱になるにもそれなりの理由はあったのである。