2014年3月3日月曜日

ブラッドリー『論理学』14

第一巻判断、第一章判断の一般的性質の続き。

§14.しかし、定義とは「活き活きとした観念が現にある印象と連合すること」だと言われており、活き活きということはなんの関わりもないのか、と尋ねられるだろう。みじんも関係がない、と私は答える。真であれ偽であれそれはまったく関わりがない。活きのよさは我々が述べてきた反論をなにひとつ取り除くものではない。好きなだけ活き活きしたものをとったとしても、それは単なるあらわれであり、判断は存在しない。観念の活きのよさは判断でないばかりでなく、その条件でさえない。真だと判断された観念はそう判断されなかった観念より強いものでなければならないという教義は、現実の現象との直面に耐えられないだろう。観念の強さを感覚に引けをとらないまでに強めることはできるが、そこに判断は存在しない。混ざりもののない事実が自身で声高に語っているので、この点について論じることはしないが、一つ例を挙げよう。我々はかつて同居していた人物のイメージをその人物が死んでからももつことがある。そうしたイメージは、ほとんどの場合微かなものであるが、その強さと独特な感じが我々の見ていない部屋の片隅に実際にあるように感じられて悩まされることもある。異常な状態では、そうしたイメージは幻覚となり、眼前に実際の知覚対象としてあらわれることがあるのはよく知られている。しかし、教育を受けた人間ならそれを幻影だと認め、弱く普通のイメージが我々の心にしか存在しないと判断されるように、外にある実在だとは判断しないだろう。だが、現在の印象と連合した活き活きとした観念、それをここで得ないとするなら、それはどこにあるのだろう。

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