散る花の中にも一本さくらかな 幸堂得知
幸堂得知は万延元年(1860年)江戸下谷車坂町に生まれ、大正二年(1913年)根岸に没している。劇評家として活躍した人で、江戸芝居についてもっとも詳しい人物の一人として知られていた。饗庭篁村、森田思軒、須藤南翠、幸田露伴らが参加した「根岸派」と呼ばれるグループの最年長だった。饗庭篁村のほぼ一回り、幸田露伴のほぼ二回り年長である。根岸派は文学者の集まりではあったが、尾崎紅葉の硯友社のように文学的運動を組織するわけではなかった。「彼等を一党一派と団結させたのは、文学上の主張でも主義でもない、むしろ酒であった。詩酒徴遂の遊楽であつた。彼等は文壇の覇権を心配する大友の黒主の寄合ひではなしに、世俗を白眼視する清談の酒徒のまどひであつたのである」と柳田泉は書いている(『幸田露伴』)。
幸堂得知の文章をまとめて読んだことはない。根岸派の行事に二日旅行と称するものがあった。一泊二日の旅の間、御前と三太夫を決め、御前の命ずる無理難題を会計を預かる三太夫が機転を利かして取りさばき、客人たち(つまり、御前と三太夫以外の者たち)を満足させるという遊びだ。彼らが群馬県松井田に旅したときのことが、その参加者がリレー式に道中の様子を語った『草鞋記程』にあらわれている。同じく、墨堤を一日歩く遊覧の記事が『足ならし』としてまとめられており、この二編にある短い文章でしか幸堂得知のことは知らない。今回あげた句も露伴の「得知子の俳句」(明治三十年)という五行ばかりのごく短い文章で知ったもので、得知の句が何らかの形でまとめられているのかどうかさえわたしにはわからなかった。『草鞋記程』には「煙たつ浅間も白し冬隣」「月と寐たむかし語りや枯芒」の二句があり、また、新潮社の『日本文学大辞典』によると、齋藤緑雨が「幾ら食ふものか捨てゝおけ雀の子」という得知の句を「太つ腹な句だと褒めた」とあって、これがわたしの知る得知の句のすべてである。
露伴の文章には、得知が「先代夜雪庵門下の逸才にして、句ぶりおのづから一家をなせり」とあるが、この夜雪庵とは明治二十年代まで生きた四世ではなく三世のことなのだろうか。夜雪庵の句も捜してみたのだが、わたしの手持ちの本ではまるっきり歯が立たない。露伴はこの句を直接本人から聞いたらしく、「其後、人の花の句得たりなどいふごとに、耳を傾けて聞けど、これに勝りたりと予が思ふ句をば今に得ぬなり。めでたき句なるかな」と簡潔に評しているが、期せずして緑雨の評言と符節を合わせていると言えよう。これほど短い詩形にもかかわらず、文の柄が(人柄とは言うまい)あらわれるのが俳句の不思議なところである。結局わたしが俳句に求めるのはこうしためでたさが自然ににじみでるような柄の大きさでしかないのである。
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