書簡は書いた人間の息づかい、固有の生活様式、外見だけではわからない癖や他人との距離の取り方などを窺わせてくれるところに魅力があるのだが、スピノザの書簡集にはいささかそうした魅力に欠けるところがある。
というのも、スピノザの手紙の宛先が個人であっても、その人物を代表とする同好の士に回覧されることが当然のこととして前提されていたからである。つまり、手紙とはいってもなかば公的なものであり、それゆえ話題がプライベートにわたる場合には、他人に見せるようなことはしません、とわざわざ断られている。
とはいえ、著作には見られないようなスピノザの人間性がまったくうかがい知れないというわけではない。たとえば、知性が見いだしたものと聖書とが齟齬するような場合、知性を取るのが哲学者だとするスピノザは、聖書の権威を振りまわすブレイエンベルフなる人物に対し、私はあなたを哲学者だと思っていたがそうではないらしい、従って私たちが啓発しあうことなどはないでしょうし、私の手紙はあなたになんの益にもならぬわけだから文通などやめましょう、ときわめて強い口調で書き送っている。
おそらくは、花田清輝の『復興期の精神』にあるスピノザについての文章が記憶に残っているせいか、スピノザといえば、驢馬を水槽と秣桶の間に置くと、自発的な選択のできない驢馬はどちらから手をつけていいものか立ち往生してしまい、最後には餓死にいたると説いた「ブリダンの驢馬」が思い起こされ、なにかこうした強い断言的な口調とスピノザとが結びつかないのだ。
もっとも、不可解なスピノザと言えば、哲学に専心していたスピノザには趣味らしき趣味もなく、ただひとつ蜘蛛を飼い戦わせることを楽しみにしていたというのだが、ものの本によると、それを見て涙を流すまで笑いころげたというエピソードがあって、どちらが勝つかといった興奮やある種残虐な本能の満足ならわかるが、笑いが発せられることにはなにか奇妙な経路を感じさせる。
なかば公的なものとはいっても、書簡には相手がいるというのが、著作とは大きく異なることであり、自分にはさして興味のないことでも、聞かれれば答えねばならないことにもなる。オランダのゴルクムで政治に関係していたフーゴー・ボクセルとの往復書簡はみな幽霊に関するもので、ボクセルが幽霊の存在を主張するのに対してスピノザが反駁する。幽霊は子を産むことがないので女性の幽霊は存在しないとするボクセルの説に対するスピノザの言葉はどこか蜘蛛の戦いを笑うのと同じ経路を感じさせる。
実際もしそれが真に貴下の御意見でしたら、それは神を男性と見て女性とは見ない一般民衆の想像とよく似ていると思います。裸の幽霊を見た人々が目をその性部に向けなかったことを私は不思議とする者です。それは恐怖のためだったでしょうか、それともこの区別について何も知らないためだったでしょうか。(畠中尚志訳)
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