中国には、邯鄲の夢や南柯の夢のように、短いうたた寝に一生の浮沈を経験するような寓話がある。そこで見られる夢は『金瓶梅』のようなものでもよかったかもしれない。
というのも、ひとつには、よく知られたように、『金瓶梅』は『水滸伝』のスピン・オフのような作品であり、『水滸伝』では西門慶と密通する潘金蓮が夫の武大を砒素で毒殺するものの、それを知った虎殺しで有名な弟の武松に両人とも血祭りにあげられるのだが、『金瓶梅』では両者はいったん逃れおおせ、百回に及ぶ『金瓶梅』という物語を生きるからである(もっとも二人とも終盤で死んでしまい、最後まで残ることはないのだが)。つまり、『金瓶梅』とは武松に殺される一瞬の間に、西門慶あるいは潘金蓮が見た夢と考えられないこともない。
もうひとつ、『金瓶梅』に夢幻的な性格を与えているのは、物語が巨大なモラトリアムに呑みこまれたかのように、一向に動きださないことからきている。岩波文庫では一冊に十回分、全十巻に及ぶが、物語が本格的に動きだすのは、第六巻、第五十九回、潘金蓮とともに六人の夫人のなかでもっとも寵愛の深かった李瓶児の子供が死んでからのことなのだ。
それまでに、西門慶は役人となり、賄賂をばらまくことで地位を上げ、力をつけていくのだが、その内実とは要するに、仲間たちと酒を飲みご馳走を食べ、六人の夫人ばかりでなく、人妻や芸者や女中などと媚薬や性具などを使いつつセックスを繰り返しているだけなのである。
しかし、こうしたいつまでも続くかのような宴が、この大長編の約六割を占めることで、それ以降の出来事がより意味深いものとなる。第六十二回では、子供の死から立ち直れないかのように李瓶児が死ぬ。西門慶はこれまでは見せなかった悲しみの感情をあらわすようになる。そのうち、同僚の夫人に情欲を燃やすことで、ようやくもとの西門慶が戻ってきたかに思われたのだが、それも燈火が消える前にひときわ大きく燃えあがるようなもので、泥酔して意識が混濁しているときに、潘金蓮に大量の媚薬を飲まされてから病の床につき、陰嚢がふくれあがって鮮血が流れ出し、亀頭に吹き出物ができて、黄色い液を後から後から流しながら死んでしまう(第七十九回)。潘金蓮は戻ってきた武松に両手で胸を引き裂かれて死に(第八十七回)、西門慶の家にいた者は櫛の歯が落ちていくように散り散りになり、多くは非業の死を遂げる。
この感触は、おいしい月餅を食べたときのことを思わせる。餡はそれほど甘くなく、かちかちに冷やしたアイスクリームほどの歯ごたえがあって、それでも二噛み三噛みしているうちにみるみる溶けて
なくなり、胡桃やわけのわからぬ木の実の感触だけが残るような月餅で、夢のような宴が淡々と消えてしまっても、西門慶や潘金蓮の放蕩を支える生命力が確かな歯ごたえとなって残るのである。
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