§19.私は魂のより低次の形式、あるいはなんらかの形式が単純な感覚の把持だけに制限されていると言おうとしているのではない。魂が与えられたものになにもつけ加えず観念化もしない受動的な容器だとしても、実際の心には更に進んだ段階があり、我々は常に感覚を通じて与えられたもの以上のものをもっている。いわば、印象というのは、観念的構築物によって補われ変更されており、それが過去の経験の結果をあらわしている。かくして、ある意味で、もっとも低次な動物でも判断し推論しているのであり、そうでなければ、彼らは行動を環境に調整しないに違いない。しかし、厳密な意味では、彼らは推論もできなければ判断もできない。というのも、彼らは観念と知覚された現実とを区別しないからである。
実際の事物と知覚にあらわれるものとが同一ではないことは、我々がみな気づいているように、非常に遅れて知られることである。同じ時期ではないにしろ、同じように遅く知られるのは、観念と印象にはある種の差異があるということである。より原始的な心にとっては事物はあるかないかであり、事実であるかなにものでもないかである。事実は存在するかもしれないし、仮象であるかもしれない、それ自身ではないなにかの真実であり、それに属しているのかもしれない。また、幻影であるかもしれず、その内容がそれ自体にも他の実在にも属していないため、存在はしても間違っているかもしれない--これらの区別は初期の知性にとっては不可能である。非実在物は了解できるようななにものでもなく、間違いとは決して幻影ではない。それゆえ、こうした精神にとっては、観念は決してシンボルとなることはできない。それはそこに存在する事実である。
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