2014年3月8日土曜日

存在の強さ――幸田文『木』


                        
『鬣』第32号に掲載された。

幸田文は新潟の海岸でテトラポットを始めて見たとき、なにか惹きつけられるものがあって、そのままずっと見ていたいと思ったそうだ。その後も時折思い返し、関連のある事柄から連想されることもあれば、まったく関係のないときにふっと浮かぶこともあった。それからも新しいもので心を動かされたことはあったし、感心することもあったが、テトラポットのようにいきいきと心によみがえってくることはなかった。理由がよくわからないので、幸田文はそれを「へんなテトラ」という枠に入れておいた。

ところが、あるときその理由がわかったような気がした。ちり紙交換に出す新聞紙を紐にかけて出しておいたところ、普段は無口なちり紙交換屋さんが、新聞が汚くなっていなこと、折り目を交互に重ねてあること、紐がしっかりと固くかけられていることが、自分がトラックに積む上でとても都合がよく、手間が省けるのでお礼に二つ余分に紙を置いていく、と言って、古新聞の束が整然と積まれたトラックが遠ざかるのを見て、次々に連想がたぐり寄せられたのである。

第一に浮かんだのが嫁ぎ先の酒問屋で見慣れた酒樽のことだった。倉には薦被りの四斗樽を縦横高さそれぞれいくつと、順々に積み重ねていくのである。次に浮かんだのが杉形(すぎなり)で、杉の形に倣うように、下部を広く頂部を尖らせるように整えることで、霊前の盛菓子、神前のお供え、来客へ出す菓子、料理の盛りつけ、薪炭俵の積み方など、杉形にするよう口やかましく言われたという。かくして、これまでの自分の生活に深い関わりのあった積むこととの関わりにおいて、テトラポットがかくも印象深いものとして間々心に浮かび上がってくるというのだ。

だが、本人自身「新潟のテトラの記憶も、なぜなのかわからない。交換屋にほめられての連想も妙なものだ。」と言うように、積まれたものが様々あるなかで、なぜよりによってテトラポットが何回も繰り返し思い返されるのかははっきりしない。

だが、『木』全体を読んでみると、幸田文がテトラポットの重量感、巨大なマッスに惹かれているのだということがわかる。縄文杉を始めて目の前にし、そのこぶだらけの姿、赤褐色のなかに灰白色の筋がうねる皮肌を「おどろおどろしくて不快」だとしながらも、しばらくするとその圧倒的な重量を「剛健」「実力のたのもしさ」として受け入れてしまう。また、山梨県にある神代桜でもやはり眼がいくのはこぶだらけの「おどろおどろと」した根元の姿であり、「こわくなる」と言いながらもそうしたいびつさから視線を外すことができないのである。

実際、植物に関するエッセイでありながら、これほど審美的な鑑賞から遠い文章は他に存在しないだろう。もしある木が美しかったとしても、それは外観の美的形象によるのではなく、その存在の強さとでも言える迫りくる力を感じられた場合に限る。結局のところ、幸田文はこの力に生涯惹かれ続けた人であって、その点では父露伴も崩れも同じなのである。

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