ブラッドリー『論理学』17
第一巻判断第一章判断の一般的性質から。
§17.我々はこうして前述の教義の間違いを見てきた。それらがもつ主要な真実を考えるのはより喜ばしい仕事である。(i)§13で我々が批判し始めた見解は、主語、述語、賓辞の誤りを避けている。その見解は、判断においては観念の数は主要な問題ではなく、問題の本質は観念にあるのではなく、それを越えたなにかにあるとしている。より細かな点について言うと、あらゆる判断に意志が含まれているというのも完全な間違いではない。発達の最初期においては、知性は実践的であり、独立して働くとはとても言えないことは真実である。また、自己意識の進化において、観念と現実との対立は、ここで論じることはしないが、ある程度までは意志作用の経験に依存しているのも確かなのである。これらの点において、いかに著者によってその多くが捨て去られたとはいえ、この理論には真実があり、我々はベイン教授に称讃を送るだろう。そして、判断においては感覚と結びついた観念連合があり、両方の要素が合体しているというのもまったく真実を欠いているとはとても言えない。というのも、(続く章で見る通り)あらゆる判断の主語は最終的には知覚にあらわれる実在だからである。また、判断と推論の発達における初期の段階では、観念的要素と感覚的あらわれとの再統合が続き、両者は区別されることなく一つの全体を形づくりもするのである。
(ii)二つめの誤りからも我々は重要な帰結を集めることができる。第一に、肯定された内容が常に複雑なものだというのは真実である。それがまったく単純な観念であることは決してあり得ず、常に諸要素間の関係や区別することのできる諸相を含んでいる。結局、判断には観念の多様性がなければならない。特に、(a)述語は主語を差し挟むためのクラスだというのは誤りであり、普遍を集合の形で考えるのは根本的な誤りであるが、述語が常に普遍的なものでなければならないというのは完全な真実である。というのも、あらゆる観念は、例外なく普遍的なものだからである。(b)肯定は主語を判断に帰することではなく、文法上の主語は述語が真として適用される実在だというのは間違っているが、あらゆる判断には主語が存在しなければならない。観念内容、切り離された属性は実体と結びつくことで再び実在となる。(c)等式の、各項の同一性の教義はある真実をつかんでいて、その真実は逆さまの明るみに出されていない真実だが、深く根本的な原理である。
逆さまになることで間違っているというのはこういうことである。判断の目的は、その意味の相違にもかかわらず、その外延をとる限りでは主語と述語との同一性を主張することである。しかし、正しい方向に向きを変えると次のようになる。判断の目的は、主語の同一性のもとに異なった属性の総合を主張することである。「=」と書くときにはいつも、相違が存在しなければならないが、我々はその項を区別することはできない(第五章参照)。判断が等式になったときに我々が言おうとしているのはまさしくこの相違なのである。「S=P」で、我々はSとPが同一であると言おうとしているのではない。我々が言おうとしているのは、それらが異なっており、SとPという異なった属性が一つの主語において結びついているということである。S-Pというのは一つの事実であり、主語であるSは単なるSではなく、S-Pでもある。等式の理論がある働きをし、単なるナンセンスに終わっていない理由は、実際には、それが間接的な方法で相違を語っているからである。「主語は同一である」ということが含み、伝えようとしているのは、属性が異なるという真実である。あとでより詳しい説明をしなければならないが、いまのところは簡単に同一性はあらゆる判断の根底になければならないと指摘しておこう。
しかし、どうしてそれが可能なのだろうか。Aは「Bに先行する」、「Cの左手にある」、「Dと等しい」などにおいて。これらの判断は二つの主語の等しさ、順序、位置などを述べていて、両者が同一だと言っていないのは確かである。説明してみねばなるまい。我々が見てきたように、あらゆる判断は観念内容を現実に帰することであり、この現実が内容の帰属する主語である。かくして、「AがBに先行する」においては、A-Bの全関係が述語であり、それが正しいということは、その関係を実在の世界の従属物として扱うことである。それは単なるA-Bを越えたなんらかの性質である。しかし、もしそうなら、従属物A-Bが指し示す現実がA-Bの主語であり、この相違の総合の根底には同一性がある。
単に同じであるという意味での同一性ではなく、多様性のなかでの同一という意味での同一性である。判断においては、単なる項としての区別の他に、時間においてもAとBは対立している。A-Bが主張されるときの主語は、そうした相違の支配下にあり、同一は保ちながら、それ自体において異なっている。この意味において、あらゆる判断は、相違のもとにある同一性か単一の主語の真実である多様性を主張する。この論議をより精妙なものにしていくことが形而上学の仕事であろう。我々は最終的には、どんな関係も包みこむことのできない存在のなかにあるなにか、存在の間にあるなにかがあるかどうか尋ねてみなければならないし、その要求をうまくまとめることは難しいかもしれない。しかし、我々は既に探求の限界にまできている。判断に含まれる真の主語については後の章でまた扱うことになろう。そこではいまはまだ曖昧さの残る点をより明確にできるよう願っている。
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