第一巻判断、第一章判断の一般的性質から。
§16.(ii)ここで最初の誤りを終え、次の誤りのグループを考えることとしよう。それらは共通の欠点、判断においては一組の観念があるという誤った考えに苦しんでいる。我々はこの錯覚を§11で扱い、以下の章でも出会うことになるだろうから、ここでは簡単に触れるだけで十分だろう。一般に受け入れられている伝統的な主語、述語、繋辞は単なる迷信である。判断において肯定される観念的事柄は、疑いなく、内的な関係を有しており、ほとんどの場合(すべてではない)その事柄は主語と述語として配列される。しかし、その内容は、既に見たように、肯定でもそれ以外でも同一である。もし判断する代わりに質問したとしても、質問された事柄は判断される事柄とまったく同じである。それゆえ、この内的な関係がそれ自体で判断となることは不可能である。よくいって、判断の条件となるのがせいぜいだろう。繋辞が一組の観念を繋ぐものだとしても、それは判断とは関係がない。他方、もしそれが判断のしるしだとすれば、それは繋ぐ働きをしない。あるいは、それがつなぎ合わせることと判断することの両方だとすれば、判断とはいずれにしろ単なる繋ぎ役ではないこととなろう。これ以上この一般的な誤りに関しては述べない。それが誤った見解に及ぼす結果について指摘していくことにしよう。
(a)判断はあるクラスへの包摂やそこからの排除ではない。「AはBに等しい」、「BはCの右手にある」、あるいは「今日は月曜日の前の日だ」と言うとき、私は心の内に「Bと等しいもの」、「Cの右にあるもの」、「月曜日に先立つもの」についての集合や記述をもっているのだと主張する教義はまったく事実に反している。それは、「これは我々の息子のジョンだ」、「これは私の一番いいコートだ」、「9=7+2」ということで、私は「我々の息子であるジョン」、「一番いいコート」、「7+2と等しいもの」について考えているのだと主張するのと同じ程不条理である。この見解が先入見を含まず、それ自体で事実の解釈であるとするなら、これほど議論されるようなことはなかったと思う。後にこの問題には戻らざるを得ないので(第六章)、ここではこのままにしておく。
(b)判断は主語への包摂やそこからの排除ではない。主語ということでここで私が言っているのは、観念内容のすべてが指し示す究極的な主語のことではなく、その内容のなかにある主語、別の言葉で言えば文法的な主語のことである。「AはBと同時である」、「CはDの東にある」、「EはFと等しい」というとき、ACEだけが主語で、残りが属性だと考えるのは不自然である。立場を入れ替えることも同じように自然なことであるし、多分より自然なのは、どちらもせずに代わりに「AとBは同時である」、「CとDは東と西にある」、「EとFは等しい」と言うことである。肯定されるのであれ否定されるのであれ、複雑な観念は、疑いなくほとんどの場合、主語とその属性となる性質が配されるが、少なからぬある種の例では二つ、あるいはそれ以上の主語がその間に存在する関係を属性とすることがある。私は沢山の主語を一つの主語として曲解できることは認めるが、曲解が認められるなら、探求というのは単に曲解間の争いになってしまうだろう。すべての主語を一緒にし、それぞれ独立した性質(各主語)の間の関係を属性として示すこと、あるいは、この関係を主語とし、残りのすべてを属性を示す述語とすることはさしたる技術を必要とはしない。かくして、「AはBと同時である」において、「ABの存在」を同時性の属性と呼ぶことも、「Bとの同時性」をAの属性と呼ぶことも容易である。結局の所我々に観察できるのは、存在に関する判断は、我々が考えているような間違いには容易には陥らないということである。「ここにはなにもない」というような否定的判断には容易なことでは説得されないだろう。しかし、これらの点については後で言及しなければならない(第二章、三章)。
(c)判断は、主語と述語が同一、または等しいことを主張するものではない。この間違った教義は、前に見た間違いの自然な帰結である。まず、判断においては二つの観念の間の関係があると仮定し、次に、それらの観念は外延において考えられねばならないと仮定するのである。しかし、どちらの仮定にも欠点がある。その帰結を考え、それが有益かどうかを問うのでなく、真実かどうかを問えば、我々は長くためらうようなことはないと思う。「あなたは私の前に立っている」、「AはCの北にある」、「BはDに続く」といったことで、我々が実際に意味しているのが等しさや同一性の関係なのだということは端的に信じがたい。曲解もここまでくると、一般の人々は自分の眼で見たものも信じられなくなるだろう。
作業仮説として使うと、ある制限内ではいかに有効なものであろうと(第二巻、第二部、第四章を見よ)、真実としては真面目な検証には耐えないだろう。より詳しく見てみよう。
(i)等しいと認められたものは、もちろん量においても同一であり、それ以外ではあり得ない。私はこの言葉の無謀な使用についてあえて勇をふるって不満を述べなければならない。=という記号を性質の同一、あるいは個物としての同一性(その違いについては問わないことにする)に用いることには耳障りなところがあるのは間違いない。多分、なんの害もないだろうが、我々がそれを用いる際には誤用や混乱を防ぐためのなんらかの制限が必要である。そこで、等しさを正確な意味にとり、量の同一をあらわすものとしよう。しかし、もしそうなら、もし主語と述語が量的に等しいとされるだけなら、「黒人は人間である」というのは「すべての黒人=人間の一部」ということで、二つのものについて言われ意味されるのが数的な比較でしかないなら、2=12-10といったレベルのことに過ぎず、両者の間にまったく違いはなく、すぐに次に進めるだろう。少なくとも、ある種の判断が量の関係では表現できないことは確かであり、それができるのは非常に小さな範囲にしか過ぎないことも確かである。例は特に必要ない。「希望は死んだ」というのは、「希望と死物の断片には正確に同じ量の構成要素がある」とでもいうことを意味しているのだろうか。「判断とは等式ではない」と主張することで、両者を2で割っても同じ量にはならないという私の信念を表明してもいるのである。
=という記号は等しさを意味しているとは思えない。主語と述語の構成要素が量において同一であることを意味しているのではない。両者が同一であることを意味しているように思えるのである。それが主張する同一性とは量的なものではなく、絶対的なもののようである。「あらゆる黒人=人間の一部」において「=」は量的性質的双方の相違の排除をあらわしている。
(ii)同一性とは(a)類似ではない。それは限定的なものであれ非限定的なものであれ、部分的な性質の同一性にある関係ではない。「鉄=ある種の金属」は「ある種の金属は鉄に似ている」ということを意味することはできない。事実がそうした解釈を退けるばかりでなく、それでは理論が働かないのだろう。「似ている」、「類似」というのが実際に働いている語句なら、それは=の場合と同じように、理論が実際に言っていることを意味していない、あるいは実際になされていることをまったく知らないことの証拠となる。AがBに似ているからといって、一方の代わりに他方を使うことは、もちろん、正しいことではない。(第二巻参照)
(b)繰り返し言うが、同一性とは部分に限定されるもの、ある特殊な点、あるいは部分において性質が同じだということではない。というのも、この解釈によれば、同一の点がはっきりしない限り先には進めないことになるからである。そうなっては、等式理論は働かなくなってしまうだろう。
(c)両項は名前が異なっているだけであり、判断で重要なのはこの名前の相違だと仮定するのでなければ--この考え方については後に一瞥することにする(第六章)--我々は=という記号を<あらゆる>相違を排除する完全な同一を意味するものととらなければならない。しかし、もしそうなら、理論が首尾一貫したものであることを望むなら、すぐに修正を加えねばならない。「黒人=人間の一部」というのは、「人間の一部」が「=黒人」でないのは明らかであるから、真ではないことになろう。また、黒人が人類のある定まった部分と等しいというのも真ではない。定まった部分というのは普遍的な属性であって、黒人同様他の人間にも適用されるからである。もし「である」や「=」が「と同一である」ことをあらわすなら、「Aは1/3Bである」というのは「Aはある種のBである」と同じく間違っている。「ある種のB」とはAであるBに当てはまるばかりではない。他のB、Aではないものにも同じように当てはめることができる。それは「1/3B」でも同じことである。それはAと同一のものにも当てはまるが、Aではない2/3の部分にも同じように当てはめることができる。述語を量化しようとするのは中途半端な教義で、「=」が等しいことを意味するなら事実に反しているし、「=」が「である」に過ぎないなら馬鹿げており、「=」が「と同一である」をあらわすなら紛れもない誤りである。
一貫性を得るためには、我々は述語を量化するばかりでなく、それを性質づけなければならない。黒人である人間は、人間のある限られた集団でもすべての集団でもなく、確かな数をもっている。彼らは黒人である人間であり、それこそが述語となる。黒人=黒人-人間であり、鉄=鉄-金属である。述語はこうなると主語と同じようなものであり、その代わりを務めることもできる。この考えは大胆であり、その帰結は考慮に値する。しかし、その作用力ではなく真実を見るなら、この考えはまだ大胆さが足りず、最後の矛盾を取り除く勇気が要求される。
AがまさしくABと同じであり、ABがAとまったく同一であるなら、確かに驚くべき結果である。A=Aであるとき、一方の側にBをつけ加えても等しさはもとのままで真だということがありうるのだろうか。Bが0を意味しているのでないなら、それはなんらかの相違をもたらすはずだと考えるのが当然だろう。しかし、もし相違をもたらすなら、我々はもはやA=AB、そしてAB=Aということを信じることはできない。もし「鉄ー金属」が「鉄」と同一であるなら、どんな誤解によって両項に異なった言葉を書き留めることになったのだろうか。もし両者に相違があるのが確かなら、「=」を自分で否定していることになり、その言葉は誤りになる。しかし、もし相違がないなら、そのような形で、「鉄」と「鉄-金属」を対立させたことは間違っていたことになる。
ここには一つの問題があるだけである。もしAがABなら、ABであるAはAではなくABだということである。どちらの項もまったく同じであり、そのように言明されるのも当然である。黒人-人間は黒人-人間であり、鉄-金属は鉄-金属である。ジレンマについて考えよう。BはAの付加物であるかそうでないかである。もし付加物でないなら、それを加えるのは無駄なことである。それはどちらの側を選んでもなにも意味せず、どっちにしろ無意味であるから取り去るべきであり、そうするとA=Aとなる。しかし、Bが付加物なら、A=ABは真ではあり得ない。どちらの側にもBを加えねばならず、AB=ABとなる。簡単に言うと、Bは消え去らねばならないか、両側になければならないのである。
こうして我々は首尾一貫させたわけであるが、読者はこう問うかもしれない、この結論はまだ間違っているのか、と。私は片意地だとは思われたくないので、こう問い返したい、あなたはこれが真実だと思いますか、と。私はあなた方の答えを受け入れよう。もしあなた方が同一性に関する命題はすべて間違いだというなら、私はそれに反対はしない(第五章§1参照)、というのも私もまたなんらかの相違を主張しないような判断は存在しないと信じているからである。しかし、もしあなた方が真実だという方に荷担するなら、私は質問をしてみたい。真実であると主張しているからには何ごとかを主張しているはずだが、あなたはなにをいったい主張しているのだろうか。相違のないところには相違は存在せず、ABはABである限りABだということだろうか。ほとんどなにを意味したことにもならない。ABの存在が秘密裏に主張されているのだろうか。しかし、もしそうなら、素直に「ABが存在する」と言うべきで、ABの繰り返しにはまったく意味がない。我々がその存在を知っているのは、それを疑っているからではなく、その存在を知っているからだと私は思う。
それでは、AB=ABで我々はなにを主張しているのだろうか。主張すべき何ものももっていないに違いないと思われる。判断は中身を抜き取られ、最終的には消え去るのである。我々は前提から結論にまで速やかに移動し、最終的に我々に残されるものはなにもない。主語と述語の相違を取り除くことで、我々は判断というものすべてを取り除いてしまったのである。
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