合理化の三種の体制
我々は定位に関する章を三種の合理化の体制、魔術、宗教、科学についてもっとしっかり考察することで終われたかもしれない。魔術は主として自然の力の支配を強調し、宗教は人間の力の支配を、科学は第三生産体制であるテクノロジーの支配を強調する。
『金枝篇』で、ジェイムズ・フレイザー卿は、これら三種の合理化の相似と相異について興味深い区別を施した。彼が言うには、魔術と実証科学は、自然過程の斉一性や規則性を仮定しており、適切な公式を発見することによってこの過程を利用しようとする。魔術と科学では、実行者が正確な手順を遵守すれば、望んだ結果が必然的に生じるだろう。うまくいかなかった場合、なすべき手順が間違っていたのか、不可測な要因が加わったのだと仮定されよう。
フレイザーによれば、科学や魔術の枠組みでは、実行者の力は自然の作用力についての知識の限界によってのみ制限される。「物事の原因を知り、世界の広大で入り組んだメカニズムを作動させる秘密の源に触れることのできる両者の前には、限りがないかのような可能性の眺望が拡がっている。」魔術や実証科学の仮定によれば、自然は不変の法則によって働いている。自然には偶然も気まぐれもない。正確な技術さえ手に入れれば、世界の変わることのない因果性を意のままにすることができる。判断の誤りは危険な結果を招きうるが、正確な判断による報酬は無限である。
こうした姿勢とは対照的に、フレイザーは宗教的な合理化として、和解的な要素を強調する。宗教的な実践者は、「自然と人間の生を導き、支配すると信じられている人間より優れた力を懐柔」しようとしている。宇宙の法則は不変なものではない。自由裁量の原理が導入される。知識と力(支配の技術ではなく)ではなく、謙遜、従順、迎合(誘いかけの様々な方法)が最重要となる。もし罪を犯してしまったら、因果法則をどんなに操作しても逃れる道はない――しかし、もし恩顧を得ることができ、超越的な力が望みさえすれば、自然法則でさえ変えうるだろう。
或は、主として人間の生産力を支配することを目的とする合理化が、人間の意識に最も特徴的なもの、選択の原理、決定というのはそのすべてがあらかじめ定められているのではなく、倫理的、創造的な新たなものだという感覚を天上世界の原理として導入したとも言えるかもしれない。人間を特徴づける自由の幻想は、自由意志を神に帰していることに反映していた。呪文や実験室での支配ではなく、祈りによる嘆願が必要とされた。というのも、「事物は支配しなければならないが、人間は誘い導かねばならない」からである。
かくして、魔術的科学的合理化は、正確な公式によって操作できる普遍的な法則性があるという仮定によって宗教と区別され、宗教は強制することはできず、なだめなければならない専横な原理が強調される。
フレイザーは、魔術の効力についての信念は、その誤りが発見されることで崩壊したと考えているようである。だが、彼の描きだした合理化は全体として首尾一貫しており、「実際的成功」によって充分確証されているので、反証によって信望を失うことになるかどうか私にはわからない。季節を規則正しく進行させたり、豊作を保証したり、子供の妊娠を助けたりする魔術師の能力は、驚くほどの成功を見せている。もし疫病や干魃がしばらくの間彼に抵抗するとしても、対抗する呪文が働いているのであり、合理化そのものは攻撃されないままに止まる。現代の科学者が、因果法則の操作をうまくできなかったときに、我々にはまだ十分な知識がないと謙虚に認めることができるようなものである。
こうした自律的な体系は、ただ外部からのみ攻撃できるものだと思われる。そして、攻撃は新たな観点が生じてきたときに生じるのだと私は思う。この観点は、自然の力の支配ではなく、人間の共同作業を強調する。我々はこの観点を、成功のためには生贄の苦しみに無関心な魔術に対する哲学的な修正と呼べる。修正の哲学によって変わった魔術は、我々に和解の魔術を与える。部族の儀式は専横な力を喜ばすことを目的とし、生贄はより人道的になることで象徴的な犠牲に取って代わられる。
この修正の哲学が次第に新たな合理化、宗教へと変容を遂げる。共同作業の技術がより複雑になり、神に好意をもたれたグループが確立すると、精神病質は自然になだめることに集中することとなろう。魔術的法則の権威は異なった精神病質、異なった関心のあり方が生じることによって破壊されるだろう。そして、人々が「自らの自由意志」によって選ぶよう誘導される和解のパターンは、宇宙の本質として読み取られることになった。喜ばせたり、不快にさせたりすることができる人格的で専横な神が存在した。
かくして、宗教的合理化は、魔術的枠組みの調和の取れた性質は欠けている。いまや、自然の運用には不整合性の余地があり、それはいつでも言っていることとやっていることが別な人間と関わる際に出会う事柄なのである。
恐らくは、宗教的な定位には専横な要素があり、そこから合理化という言葉の二重の使用法が生じた。一貫性の知覚という意味での合理化と、自己矛盾の正当化という意味での合理化である。しかし、世界観の根底に非合理的な原理を据えることは、無規制の正当化、迷信、インチキを許すゆえに満足のいくことではない。宗教的な合理化を哲学的に修正することは、通常、まさしく哲学そのものだと言われている。
意味深いことに、哲学的な観点は機械的発明にある関心によってその姿を明らかにした。様々な変転、失墜、再生の後に、それが育ててきた生産工場の本性を後ろ盾にして、全体的で首尾一貫した体制として最終的に祭り上げられた。それは長い間宇宙の本性と書かれてきた。最終的に、国家の基本的な型と書かれるに違いない。
しかし、殆ど完成され実現された状況に臨む観点は、当然ながらそれをより明確にし、次に必要となる修正案を求めることになる。科学を人間の合理化の最終的な達成と見なす者は、人間の反応にある重要な側面を無視している可能性がある。完全で安定した条件といえども、しばらくの間続くと、最初に始まったときと同じ意味はもっていない。
科学がその究極的な政治的等価物を得て、完全に聖堂に祭られることになれば、我々は科学的な理想になにが欠けているかを正確に認め、それに応じた修正哲学の枠組みをとることができる。現在のところ、事態はいまだ問題が多く、テクノロジー的な生産方法が、長い間、必要とする政治的手段によって補われているところなどないという事実によって問題はより複雑になっている。それ故、純粋で単純な科学を推し進めようとする精神病質的傾向は、科学的合理化の完成という限られた社会的必要によっていまだに駆り立てられている。
恐らくは、こうした理由によって、科学的な方法を、科学の主要な仮定そのものが崩れ始めるところまで研究を進める哲学的科学者たちは、最も重要な文化的おくれ(不適切な政治構造であり、その諸手段はより以前の定位の残存である)は改善すべきことを決して忘れない者たちからは、神秘家や反動家としてあざ笑われる。
科学に対する修正哲学へのこうした攻撃は、注意深く精密な推論に基づいていることは滅多になく、一般的に、科学的な合理化そのものの権威への訴えかけによって正当化される。「神秘家」は実証科学によって確立された規範に止まることができないといって非難されるが、それは、科学がこれまでいかなるどんな確立された規範に対しても、慎重でたゆむことなく疑問を投げかけていったのを忘れたかのようである。科学をめぐる戦いにもある種のクイーンズバリー公爵夫人ルールが存在し始めたようであって、科学的合理化の既得権益に対して懐疑的な者は、中世の人間の考え方に強くあこがれ、戻りたがっていると疑われる。
科学的な合理化に対する哲学的修正は、ほぼ必然的に、宗教的合理化とのなんらかの表面的な類似性を示さなければならない。というのも、いかに熱心に機械のパターンに従って、心理学的なパターンを作り直そうとしても、人間は本質的に人間的であり――人間の力(精神と身体そのものの有機的な生産力)を支配する目的をもつのが宗教的合理化だからである。十九世紀を通じ、修正哲学が確立しうる礎として探求されたものは、ごく自然に強い動物的な要素を帯びていた(ニーチェの言葉による)。合理的なものと科学的進歩の増大によって特徴づけられた時代はまた、生、本能、無意識、衝動、原始的なものの栄光が補完的に強調された世紀でもあった。詩人たちは、生産工場を稼働し続けることだけを目的とし、人々の眼から覆い隠されていた人間の性質を際だたせようとした。
教会は満足な解決策を提示することがなかった。厳格で正統的な立場から現代の潮流に攻撃を加える者たちの間には、もちろん、最初から非難の声が響き渡っていた。多くの有能で立派な人物たちが、より弱い戦略的立場である主観主義(「私は個人的には好きではない」)、メランコリー(「ああ、昔はなんてよかったのだろう」)、皮肉(「よろしい、好きなようにやりたまえ」)へと変わることを余儀なくされるなか、「非個人的な」理由という厳めしい後ろ盾をもって「力強く」訴える者もいた。だが、全体的に言って、それは負け試合だった。第一、宗教の真に説得的な本質は、非難にあるのではなく、迎合や誘いかけの戦術にあるからである。一にして永遠な真実の擁護者は、際限なく自分の恨みを満足させるわがまま者として非難されねばならない。バートランド・ラッセルは、現代の信仰の擁護者の殆どに悪意の要素を認めている。更に、教会の厳格な教義は、歴史の転換によって見当違いとなったり、完全に危険なものとなった定位の上部構造を化石化した状態で保持していたのである。そして、最後に、真の教会は当節の瘴気溢れる沼のカバ飼育場ほどにも制度化されていないものだが、悲劇と献身の深く宗教的な心理学は地下墓地へと退く一方、「無秩序」で、「腐敗した」、「無神論的な」詩人たちの哀悼に満ちた敬虔さだけが残されたのである。
教会人は、最も脆弱で、最も中心から離れた科学者に過ぎず、古くからの合理化を新しいものに見せようとして、数限りない無益な道化芝居に従事している。彼らは科学によって理想化された合理性や一貫性の基準によって宗教的構造を作り直そうとした。彼らはまた、宗教的合理化が進歩以外のなにものをも求めないかのように、進歩を支持した。それはいまある共同のシステムを安定化しようとするものだった。内々では、進歩は変化を含むために、進歩とは反対の側に立っていた。しかし、進歩の威信が巨大になると、教会人でさえ、いかなる合理化も、それなりのものであれば、現状の維持を目的として発展されることが信じがたくなった。
しかしながら、進歩の威信は必然的に減じていくに違いない。進歩が現実のものとなり、安定への欲望が生まれ、進歩というスローガンの魔術的な魅力が消え去るまでは、観点のなかには進歩が含まれることだろう。
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