福音伝道にある不敬虔の要因
このように考えると、過去の定位を再構築する試みは、不敬虔の側面をもつことになろう。というのも、敬虔さの定義によってまず認められるのが、ガス工場の労働者が彼らなりの敬虔さをもっているということなら、逆に、新しい宗教には敬虔さとともに何かしら不敬虔さが存在していると認めざるを得ない。福音主義者は我々の定位を変えるように要求する。彼は我々に新たな意味を与えようとする。その群れに忠実なものもいれば、不敬虔なメンバー(「科学者」ででもあろうか)もいてこう尋ねるかもしれない。「この鳥は臆病すぎないか。愚かにも、君たちを狩る人間の姿を指して怖がらせようとしているが、実際のところあの男は、オードゥボン鳥類保護教会の者ではないか。或は、この気まぐれな鳥は君たちの集団には似つかわしくない歪んだ動機によって動かされていて、自分の羽ばたきで鳥なりの流儀で「狼だ」と叫んで、君たち全員を飛び立たせることに、病的なナポレオン的満足を得ているのではないか」と。
こうした疑問は、通常科学に特殊なものだと考えられている――しかし、それは、予言者よりも科学者のほうが現在では我々を新たな意味に向けようとしているからに過ぎない。科学者と予言者とは互いに違うことを知っているかもしれないが、それはここでの問題ではない。我々の敬虔さの定義によれば、科学の福音主義的な側面には、いかなる宗教の初期にもあらわれる福音主義と多くの類似性をもっていることを示すだけで十分である。
科学でも宗教的教えでも、預言や予知に大きな重要性が与えられている。どちらの領域でも、予知の重要な側面とは新たな定位、意味体系の修正、世界をどう構成するかについての概念の変更を必要とする。どちらの場合も、もし我々が新たな意味に従って行動を変えれば(古い手段を捨て、いま言い換えられた問題に対するよりよい解決のための新たな手段を選択する)、我々は自分自身そして集団をよき生へと近づけることになろう。そして、キリスト教の福音主義が(ロゴスやキリスト教の教えという形で)今日の科学を特徴づけるような主知的な疑問から出発したことを示すものもある。キリスト教から生じた公的哲学は高度に懐疑的であった。
子供の言語習慣についての研究で、ピアジェは、子供たちは口論の末、論理的証明によって信念の社会化を次第に学ぶことを観察した。最初は、「お前がした――僕はしてない」といった単純な対立を主張し合うに過ぎない。しかし、次第に、自分の主張をどう「根拠づける」かを学んでいく。この点から見ると、説得力というのは、強制の成熟した形である。かくして、軍事的或は戦いの要素、そしてそれを質的に異なるなにかに作りなおそうとする試みは、通常進歩的哲学によっては無視されるが、文明の根底にあるものである。
こうした考察によると、用語の相異こそあれ、福音主義と教育或はプロパガンダの背後には、同じ誘因が見て取れる。他人に同意を生みだすことによって、自分の立場を社会化する試みの根にあるのはなんだろうか。ある人間が自分の属する集団の承認を得ようと多大な骨折りをするのは、彼が承認を必要としている証拠ではないだろうか。そうした必要は、他人が彼を認めてくれるよう誘い込むことができないなら、苦しみを受けるという意味で、罪と密接に関連していないだろうか。リチャード・ロスチャイルドは『現実と幻影』で「『魂についての恐れ』という宗教的観念は、人間の思考のあらゆる領域に行きわたっているかもしれない」と書いているが、「人間の行動のあらゆる領域」とつけ加えることもできただろう。今日の啓蒙化されたイデオロギーにおいていかに認められることが少ないとしても、いかなる形であれ労苦の道徳性を認めることには、いまだ労働による正当化が働いている。というのも、あらゆる努力は本質的に防御的であり、防衛の構造をもっており、いかに我々の防御に関する概念が昇華されようがそうなのである。
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