2014年8月30日土曜日

ブラッドリー『論理学』66

 §41.人間の生は一つの場面であらわすことはできず、この例は我々が考えたよりも射程が長い。生は単に系列をなす出来事の継起であるのではなく、(我々が思っているところでは)なんらかの同一のもの、あらゆる出来事に異なった姿でではなく、真の同一性をもってあらわれるなにかを含んでいる。我々は単称判断の三番目の主要なクラスにたどり着いたのであり、出来事ではない主語のことを語っている。この種の判断は、そこで扱われる個的なものがある特定の時間と関わっているのか、あるいはどんな時間とも関わっていないのかによって二つに分けられる。

 III.(i)人間や国家の歴史においては、我々は実在を指し示す内容をもっているが、その実在は所与の知覚への関係によって決定される系列のある部分にあらわれるものである。(ii)二つめの分類には、普遍や神や、魂を永遠のものとするなら魂に関する判断を入れなければならない。ここでは、我々の観念は知覚において見いだす実在と同一であるが、それは現象の系列のいかなる部分にも結びつかない。もちろん、そうした判断は錯覚だと言われるかもしれない。しかし、既に見たように、もし正しいとしても、この結論は我々にはする場所のない形而上学的探求によってのみ確立される事柄なのである。そうした判断は存在する、そして、論理学はそれを認める以外のことはできない。

 この三番目で、最後の単称判断のクラスは他のものとは異なっている。その本質は、究極的な主語は、「これ」にあらわれたり、系列のどの出来事かにあらわれる実在ではないことにある。しかし、この区別はある程度まで不安定である。分析判断が常に総合判断になろうとするように、ここでも、このクラスの最初の判断を総合的判断から明確に分けることは不可能である。一方において、時間的要素の連続性は単に系列的であるような性格を厳密に排除する。出来事に関するあらゆる判断において、我々は知らぬうちに同一性の存在を肯定している。他方において、ある系列における個的な生は、系列を形づくる判断のクラスにごく自然に属しているように思われる。しかしながら、個的なものに関する限り、我々は明らかに出来事の変化を通じて変わらないなんらかの実在を認めているのであるから、原則的に揺れ動くことは認めた上で、この区別を保ち続けるのがいいだろう。個人の人間の例は、我々を分析判断から総合判断へと導いた。また、それは更に先へ進む助けとなる。

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