というのも、トラシュマコスの議論はなし崩しのうちに切り上げられてしまったからである。世界は羊飼いと料理人と航海士だけで成り立っているわけではない。羊、食べる者、船客などへの不正が即座に結果としてあらわれ、しかもそれが自分の不利益にもなるという立場にあるものはむしろ少ない。
グラウコンが一般的に正義の起源と考えられていることとして説明するのは次のようなことである。人間は成長の過程で(それは種族としても個人としてでもあるが)、人に不正を加えることも自分が不正を受けることも経験する。ただ、どちらかといえば、人に不正を加えることによって得られる利益よりも、自分が不正を受けることによる苦しみの方が大きい。だから、「一方を避け他方を得るだけの力のない連中は、不正を加えることも受けることもないように互いに契約を結んでおくのが、得策であると考えるようになる。このことからして、人々は法律を制定し、お互いの間の契約を結ぶということを始めた。そして法の命ずる事柄を『合法的』であり『正しいこと』であると呼ぶようになった。」
正義とは絶対的な基準なのではなく、不正を働きながら罰も受けず利だけを受けるという人間にとって最善のことと、不正を受けながら仕返しもできず我慢するしかないという最悪なこととの「中間的な妥協」でしかない。正義を積極的に善として尊重しているのは、不正をするだけの能力がない者だけだ。
グラウコンは「ギュゲスの指輪」をたとえにだす。ギュゲスはリュディア王に羊飼いとして仕えていた。あるとき、大雨が降り、地震が起き、羊に草を食べさせていたあたりにぽっかりと穴が開いた。降りてみると青銅の馬があった。なかは空洞で、人間の姿はしているが人間より大きいものの死体があり、黄金の指輪をはめていた。それを手に入れ、羊飼いたちの集まりにでていたときのこと、指輪の玉受けの方を手の内側に回すと自分の姿が他人の目に見えなくなってしまうことに気づいた。透明人間になる能力を得た彼は、王の妃と通じ、果てには彼女と共謀して王を殺し、自ら王となった。要は、強大な能力さえもっていれば、誰でも正義という規矩などたやすく踏み越えてしまうだろう。
現に、ごく常識的に世の中を見れば、正義であろうと不正であろうと強者が利益を得ていることは確かである。それを妨げているのは、神の力ではない。ユダヤ・キリスト教以前には神のうちに絶対的な正義など存在しなかった。ホメロスやヘシオドスを読めばわかるように、神々のあいだには諍いあり、殺しあいがあり、姦通があり、いわゆる不正と思われているものが充ち満ちている。ゼウスが最上の神だといわれているが、それは最上の人間が王と呼ばれるのとさして径庭はなく、ゼウスもまた不正なふるまいにはことかかないのだ。
ギリシャにおいても死後の世界は信じられていたが、神々に欲望があることも当然のこととされていた。様々な祭儀があるという意味で信仰心は厚かったが、それらの祭儀は神々を喜ばせるためになされた。だから、いわゆる不正な行為をどれだけ行おうと、それが地獄での苦しみに直結しているわけではなく、十分な貢ぎ物をして神々を喜ばせていれば、死後の世界でも厚遇されるかもしれないのである。
それゆえ、強者が不正なふるまいによって無理矢理に利益をむさぼろうとはしないのは、世間の評判を気にしてのことでしかない。いかに強者であろうと、世論が形成され、絶対的な多数となると、それを相手に勝つことはできないからである。強者が不正なふるまいをしないのは、世論という自分より強いものをつくりださないためでしかない。
しかし、あらゆることにおいて能力に長けた者がいたとしたらどうか。いわゆる不正と思われていることを実行するだけの勇気と力があり、もしそれが発覚しても世論を納得させる弁論の能力もあり、有力な仲間や財力を有している者がいたとしたら。そんな人物がいたとしたら、「中間的な妥協」でしかない正義に心を惑わされることはないだろう。それが正義であろうが不正であろうが、好きなことを好きなふうにするに違いない。そしてそれが幸福であることも確かだろう。
その対極にある者として、たとえば、ユダヤ・キリスト教的な神のいない世界におけるアブラハムやヨブを考えてみればいい。彼らは、あるいは息子を生け贄にしようとし、あるいは精神的肉体的苦痛を受け続けるが、それは絶対的な神への信仰を支えにしてのことであり、もし神が存在しないのならば、あるいは、存在するとしても、ギリシャの神々のように気まぐれであったとしたら、アブラハムは息子を生け贄にすることなど考えないだろうし、ヨブはただ深い絶望のうちに沈んでいくだけである。絶対的に無力な人間という観念は、そして絶対的な正義もまた、絶対的な神というものが存在してはじめて成り立つ考えであり、すべてが相対的であるなら、優れた能力をもつ者がそれに対応する利を得るのも当然のこととなる。
正義それ自体の根拠を示すことができないのなら、アデイマントスは言う、「あなたが讃えているのは、〈正しいこと〉そのものではなくて、その評判であり、あなたがとがめるのは、不正な人間であることではなくて、不正な人間だと思われることなのだ。それでは結局、不正な人間でありながらその正体を気づかれぬようにせよ、とすすめていることにほかならない」ことになる。実際、ニーチェからドゥルーズに到るまでプラトン(あるいはプラトンの著作におけるソクラテス)の評判が悪いのは、こうした疑問に答えていないからである。無論、世俗的な繁栄が問題なのではなく、いかなる力もそれ自体が愉悦であることをプラトンが抑圧しているからこそ彼らは批判したのだった。ちょっと横道にそれるが、スラヴォイ・ジジェクがプラトンに対する批判をその膨大なヘーゲル論『無よりも少なく』のなかで系統立ててまとめているので紹介しよう。
1.生気論的の反プラトニズム(ニーチェ、ベルグソン、ドゥルーズ)。現実における生成が、プラトン的な形相という知的な不毛性に対立する。ニーチェが述べたように、プラトンとはある病の名である。
2.経験論的・分析的な反プラトニズム。プラトンは観念の独立した存在を信じたが(イデア)、すでにアリストテレスが気づいていたように、観念はその形式である感覚的な事物と独立して存在することはない。分析的経験論者の主要な反プラトン的命題は、あらゆる真理は分析的であるか経験的であるか、ということにある。
3.マルクス主義的反プラトニズム。このことについてはレーニンにも罪がないとは言えない。前ソクラテス派の唯物論や経験にもとずくアリストテレスに対立する最初の観念論者としてのプラトンが退けられる。この見解は、アリストテレスが奴隷のことを「おしゃべりする道具」と考えたのとは対照的に、プラトンがその共和国に、奴隷のための場所を与えなかったことを都合よく忘れ、プラトンが奴隷所有者階級の主要なイデオローグだとする。
4.実存主義的反プラトニズム。プラトンは唯一無比な単一の存在を否定し、単一の存在を普遍的はものに従属させた。この反プラトニズムはキリスト教版(キルケゴール:ソクラテス対キリスト)と無神論版がある(サルトル「存在が本質に先行する」)。
5.ハイデガー的反プラトニズム。プラトンは「西欧的形而上学」の創設者であり、「存在を忘却する」歴史的過程の契機となった人物である。彼を出発点にして今日のテクノロジー的なニヒリズムにまで達した(「プラトンからNATOへ」)。
6.カール・ポパーからアレントにいたる政治哲学における「民主主義的」反プラトニズム。プラトンは「閉じられた社会」の創設者であり、全体主義を細部に到るまで洗練させた最初の思想家である。
アレントの場合はより純化されていて、プラトンの原罪は、政治が比類がなくなんとも名づけがたい状況における実践的な知恵、判断、決定の領域にあることを理解せず、政治を真理に従属させてしまった。
このように列挙してみると、私もまた、ニーチェ、キルケゴール、サルトル、ポパー、ドゥルーズ(それほどではないが、ロック、ヒュームなどの経験論、ハイデガー、アレント)という反プラトニズム的な潮流のなかで読書をしてきたことを改めて実感する。もっとも私の場合、思想的な立場の相違というよりも、すぐあとでみるように、ソクラテスの語り口、キルケゴールが詳細に論じたイロニーに常に隔靴掻痒の感をおぼえたことからきている。イロニーをもって語ること自体は、むしろ好きだと言えるのだが、ド・クインシーが指摘しているように、それがなにを対象としているのか、また、ある種唐突な例のだしかたが、当時の対話としては当然のことであるのか、あるいはプラトンの恣意的な操作のあらわれなのかが私には判断がつきかねる。そのため、対話という平易な言葉が使われていることもあって、すらすらと読み進めてしまうのだが、いざ読み終えてしまうと、結局なにが語られ、なにが証明されたかが曖昧模糊たる場所に取り残されるのだ。
だが、いまは『国家』を読み進めよう。
ともかくソクラテスは、こうした批判に対して、「〈正義〉の味方となって、ぼくにできるだけのことをする」として、自分の議論を繰り広げるのだが、はじめから大きな飛躍が行われる。実のところ、この飛躍のあいだにはそれこそ多種多様な膨大な思索が費やされていて、議論のためとはいえ、こうした飛躍が許されるのか、私にはよくわからない。プラトンを読んでいて、いつもなにかはぐらかされたように感じるのは、こうした飛躍があるためなのは確かだ。この跳躍の部分を引用しよう。
ぼくたちが手がけている探求は並大ていのものではなく、よほど鋭い眼力の人でなければ手に負えない問題であると、ぼくには思える。で、ぼくたちにはそれほど力量がないのだから、こういうやり方でそれを探求してはどうかと思うのだ。つまり、あまり眼のよく利かない人たちが、小さな文字を遠くから読むように命じられたとする。そのとき誰かが、その同じ文字がどこか別のところにも、もっと大きくもっと大きな場所に書かれているのに気づいたとしたらどうだろう。思うにきっと、これはもっけの幸いとみなされることだろうね――まず大きいほうを読んでから、そのうえで小さいほうのが、それと同じものかどうかをしらべてみることができるのだから
大きな文字がなにかというと、著作の題名にもなっている国家である。一個人にも正義はあるが、国家にもまた正義があるだろうね、とソクラテスは問い、「ええ、たしかに」とアデイマントスは答える。「ところで、国家は一個人より大きいものではないかね?」というソクラテスの再びの問いかけに、「大きいです」と彼は答える。「するとたぶん、より大きなもののなかにある〈正義〉のほうが、いっそう大きくて学びやすいということになろう。だから、もしよければ、まずはじめに、国家においては〈正義〉はどのようなものであるかを、探求することにしよう。そしてその後でひとりひとりの人間においても、同じことをしらべることにしよう。大きいほうのと相似た性格を、より小さなものの姿のうちに探し求めながらね」
国家と個人は対立するにしろ親和するにしろ、どちらも幸福な状態とはいえないだろう。空気のようにその存在を感じないことがもっとも幸せだといえるかもしれない。ここでは議論が個人の正義に戻ってくるという言葉を信じて、先に進むことにする。ここでソクラテスは、最小限の人数からなる国家を構想する。最低限必要となるのは衣食住である(着るものと住居とは南国ではより緊急性が減じるだろうが)。また服や靴をつくるための材料のことを考えれば、牛飼いや羊飼いがいる。完全に自給自足の国を建設することはほとんど不可能である。そこで商人や船乗りが必要となってくる。市場ができれば、小売り商人、金を扱う者がいる。
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