夏目漱石、芥川龍之介、内田百閒、久保田万太郎と小説家にして俳句もよくする人物を並べてみると、統一感はないながらも、それぞれに独特の印象が浮かび上がってくる。なかには芥川龍之介や久保田万太郎のように散文と俳句とがさほど距離を感じさせない人物もいるし、夏目漱石のように小説には見られないようなグロテスクな味わいをだしているものもいる(内田百閒は古今の名句をお手本にしたきまじめさと漱石流のグロテスクとが混在している)。
ところが、永井荷風となると、一通りその句に眼を通してみても、印象となると、当惑せざるを得ない。小説から連想される艶っぽがさほど目立つわけではないし、機知にあふれているわけでもない、翻訳のときのような流麗な言葉が駆使されるわけでもない。
この著作は(ちなみに加藤郁乎の最後の本となったわけだが)その辺の秘密を解き明かしてくれる。二つの部分から成り立っており、前半部分は荷風の著作『冬の蠅』、『濹東綺譚』、『雨瀟瀟』、『断腸亭日乗』のうちに見られる荷風の俳句や俳味、俳人や俳誌との交流をたどっている。
後半部分は、荷風を敬愛した、また荷風が兄事した詩人、作家、小説家、俳人など、日夏耿之介、秋庭太郎、相磯凌霜、正岡容、邦枝完二、籾山梓月と荷風との関わりが述べられる。著者および彼らに共通するのは、失われた江戸に対する焼けつくような郷愁である。
たとえば『濹東綺譚』の私家版には写真と俳句が入っているが、大洋本という偽物があるという。俳人伊庭心猿の手になるもので、
遠道も夜寒になりぬ川むかう
という句にご丁寧に自作解釈までつけられている。それによれば、「川向かう」は隅田川東岸の寺島町、つまり玉の井の色里を指すから、この作は浅草側からのものでなければならない。また、「遠道」もなおざりに読むべきではなく、『断腸亭日乗』の探索に見られるように、麻布から銀座、江東、葛西、浅草、寺島などを経巡る行跡見聞のあとが「無限の感懐」となってひそんでいるのを感じ取らねばならないという。
この本に登場するのはこうした一団である。江戸に浸りきっているので、そこから顔をだす特異性など薬にしたくもないのだ。思えば、ソープランドが並ぶ吉原を歩いたことはあっても、吉原田圃ひとつ知らない人間がざっと読んだくらいで理解できるはずもないのである。少なくとも、植草甚一がニューヨークにしたように、一度も足を踏み入れずに町の隅々まで知悉するくらいの準備が必要である。
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