2014年8月12日火曜日

寓意を拒む物――ミクロシュ・ヤンチョー『密告の砦』The Round-Up

1965年。果てのない荒野のなかに建造物が建っている。ハンガリー平野のどこかなのだろうが、季節のためもあるのか、モノクロであるためもあるのだろうか、草木が枯れつくした荒野にしか見られない。建物は百人も入らないほどの収容所で、とはいっても、高い壁がめぐらされているわけでも、監視体制が厳重であるわけでもない。門だけは石造りだが、中には外の荒野を連想させるようななにもない空間とそれを取り囲む木造のバラックがあるだけである。

囚人を管理する者たちの居場所は、尋問や拷問の場でもあるが、同じような掘っ立て小屋で、上官たちは馬に乗ってどこからともなくあらわれ、どこにともなく去って行く。結局視野に入るのは、ほとんど入ることのない音楽と極端に少ない台詞とあいまった、遮るもののない四方に開けた荒野が開放されながら閉鎖された奇妙な空間ばかりである。

舞台は十九世紀中盤から後半にかけてのハンガリーである。1848年の革命によって、ハンガリーは一時的に独立したが、ハプスブルク帝国の支配するオーストリアとツァーのロシア軍によって敗退する。だが、弱体化した帝国を強化したいオーストリアと自国での権益を守りたいハンガリー貴族の利害が一致して、オーストリア=ハンガリー二重帝国が建設された。しかし、各地に抵抗運動の根は残り、『水滸伝』のように盗賊団と革命集団とが融合することもあった。

監禁者たちはそうした一団をあぶりだそうとしている。かといって、執拗な取り調べや尋問が繰り返されるわけではない。無表情に密告を受け入れ、特にそれを検証することもなく処刑していくだけなのだ。十九世紀を扱っているものの、こうした状況が、経済や生活の貧苦を背景にして起きた、ソビエト連邦に組み込まれた政府やソ連軍に対して民衆が蜂起し、数千人の市民が殺害された1956年のハンガリー動乱を想起させることは確かだろう。

だが、監督自身も言うように、それは見ている者すべてに明瞭なことであったならば、寓意などといったものではなく、いつでもどこでもあり得る普遍的な状況としてとらえられていたはずである。文化的な指標がないこと(冒頭と結末の説明がなければ、時代も国もわからぬままだろう)、同じく、華美であれ貧困であれ、過去や外界をたぐり寄せる会話がまったくないこと、石の扉や囚人をつなぐ鎖、そしてなによりも荒野という暴力的なまでの物の現前、こうした要素は不条理劇を思わせる。

しかし、現代の混乱や不安が生みだしたとも言われる不条理劇がともすればなにかの寓意に自足してしまうのとは対照的に、ここにはあるがままの物しかない。囚人たちが門内の広場で白い布袋をかぶせられ、細い紐を伝わって円を描いて歩く印象的な場面があるが、散歩のつもりなのか、外には荒野が広がるだけで、なんの秘密があるわけではないのになぜ布袋がかぶせられねばならないのか、そもそも実際にこうした処置がとられていたのかまるでわからないが、そうした疑問を超えた現実だけが生々しく迫ってくる。

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