2014年8月27日水曜日

ブラッドリー『論理学』65

 §40.多くの難点に出会い、そのうちのいくつかは解決できたと私は信じているが、単称判断の第二の区分についての考察を終わることになる。第三の、時間における出来事の数に限定されない判断に移らねばならない(§7)。しかし、先に進む前に、しばらく時間を割き、いかにも危険な実験ではあるが、ある総合判断を取り上げてみることにしよう。ホガースの遊女や放蕩者が練り歩く一続きの絵を思い浮かべてみよう。しかしそれ以外にもつけ加えることがある。系列のなかの一つの絵は実在で、実際の部屋に現実の人間がおり、この実在の部屋の壁にはそれより前と後の絵が掛かっていなければならない。部屋にいる人間と絵のなかにいる人間とは同じ性質をもっているので、額縁は無視して、全系列は彼の過去と未来として配列される。我々はこのようにして目に見ることのできる部屋、現前する場面を超越して時間の系列として拡がっていく人間の現実の生を見てとる。

 しかし、我々の見る実在の部屋にいる男は身体があり、骨があり、息も血もあるが、その過去と未来は、実在ということで感覚される事実を意味するなら、ガラスと木と絵の具と画布以外の何ものでもない。それは我々皆の未来や過去と同じである。記憶や予期による出来事は我々の心にある事実でるが、それがあらわす実在は、絵の具と画布による心臓以上のものではない。疑いなくそれは実在をあらわし、我々はもしそれが事実ではあり得なくとも、少なくとも真ではある、と密かに信じている。実際、もし真実が実在をあらわす自然で不可避的な方法を意味するなら、それは正しい。しかし、真実ということで、もし我々がそれ以上のことを理解するとするなら、実在が我々の観念的な構築物にあらわれる通りのものであり、現実にそこには過去、現在、未来の事実が存在すると言うなら、我々が調べてきたように、真実は虚偽にへと変化するのではないかと私は恐れる。知覚による検証でも間違っているだろうし、別の基準で試したとしても、より虚偽であることがはっきりするだけだろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿