衣食住を満足させることだけで国家は形成されない。衣服、食物、住居を作りだすにはそれぞれ独自の道具がいり、もちろん、道具を製作するにも道具がいるので、必要とされる職種は、生存に不可欠なものの数十倍に増加する。
さらには、絶海の孤島でない限り、他の国との交渉が存在することを考えねばならない。友好的な外国も、敵対的な外国もあることを思えば、外交の役割を果す者や兵士も必要となろう。そしてなによりも、必要最低限な愛国心と国家への忠誠が要求される。それゆえ、国家においてもっとも重要なもののひとつに教育があげられることになる。こうした議論の過程で、プラトンにおいて有名な、詩人や劇作家に対する非難があらわれる。欲望の限りをつくす神々を描きだす叙述は、神々に対する崇敬と「健全な」道徳とを同時に損うことになろう。
教育科目としてあげられるのは、主として詩と音楽、そして身体的な教育である。身体的教育についてド・クインシーは面白い指摘をしている。オリンピックの発祥の地として古代ギリシャは有名だが、運動選手としての教育と、兵士として役だつ教育とは異なるということだ。こうした無駄話は私がド・クインシーにおいて最も好むところでもある。
「剣闘士の学校は、よく知られ変わらないのは、公的な祭りや試合の前に体力を最大限に準備するためのものだということである。現代の、そして古代の訓練体系では、この準備段階の教練はきちんと計算できるものであったことが知られている。『ファン』が我々のなかにもいる拳闘家は、厳しい罰則規定のある法的な契約関係に入り、試合の時日が決まると、その六週間前からトレーニングに入る。試合までの日、食事、練習、睡眠、すべてを規則的に管理し、筋肉と体調を最上の状態に整える。さて、確かに一般的に見れば、プラトンの兵士の目的も同じであるが、重要な相違点がある。つまり、彼らの戦いは一日や二日ですむものではなく何日もかかるし、決められた日どころか、いつ始まりいつ終わるのか、どれだけ続くかもわからない。この相違一つですべてが変わる。古代と現代のトレーニングは二つの顕著な事実について一致している。一、異常な訓練によってついた体力は長続きせず、一様に貧弱といえる状態にまで落ち込んでしまう。シジフォスの岩のように、抵抗するものを苦痛に満ちた異常な努力で頂上にまで押し上げると、それが転がり落ちるときの大音声の激しさもすごいものになる。激しい状態は突然の反動を生まざるを得ない。二、異常な緊張からくる痙攣は危険を伴わずにいないことがわかっている。卒中や動脈瘤破裂といった突然の死は、自然の器官を危険なまでに酷使することから起きがちなのである。これもまたギリシャの経験したことだった。力をつけ、安全を確保するには時間をかけなければならない。そんなわけで、プラトンは身体的訓練の大きな法則として、食事、練習、節制、力をつけるための体操などを運動選手の学校から兵士のために借りることをやめたのである。」
プラトンのほうは、これ以降理想的な国家についての対話が続くが、さしたる興味はないので省略する。要するに、正義とは知恵を愛し求めることであり、哲学者こそがそうした正義を満たすことのできる人物である。そして、哲学とは次のような行為である。
心底から学ぶことを好む者は、真実在に向かって熱心に努力するように生まれついているものであって、一般にあると思われている雑多な個々の事物の上にとどまって、ぐずぐずしているようなことはないのだ。そのような人は、真実在に触れることがその本来の機能であるような魂の部分――真実在と同族関係にある部分――によって、〈まさに何々であるところのもの〉と呼ばれるべき、それぞれのものの本性にしっかりと触れるまでは、ひたすらに進み、勢いを鈍らせず、恋情をやめることがない。彼は魂のその部分によって、真の実在に接し、交わり、知性と真実とを生んだうえで、知識を得て、まことの生活を生き、はぐくまれて行く。そのようにしてはじめて、彼の産みの苦しみはやみ、それまではやむことはないのだ
真実在とは生成消滅しないようなもの、原型、イデアであり、プラトン哲学の根幹をなすものである。しかし、翻って考えるなら、いらだたしく思えたソクラテス流の対話術、曖昧でぬらりくらりとした答弁のあり方こそ生成消滅の最たるものではないだろうか。
「あなたがいま言われるようなことを耳にするたびにいつも、聞く者たちのほうは何となくこういう感じを受けるのです。つまり、こう考えるのです――自分たちは問答をとりかわすことに不馴れであるために、ひとつひとつ質問されるたびに、議論の力によって少しずつわきへ逸らされて行って、議論の終りになると、その〈少しずつ〉が寄り集まって大きな失敗となり、最初の立場と正反対のことを言っているのに気づかされる。そして、ちょうど碁のあまり上手くない者が碁の名人の手にかかると、最後には閉じこめられて、動きがとれなくなるのと同じように、自分たちもまた、碁は碁でもちょっと違った、石のかわりに言葉を使うこの碁によって、最後には閉じこめられて、口を封じられてしまう。しかし、だからといって、真実そのものはけっしてそのとおりのものではないのだ、と。」
このように対話者であるアデイマントスに言わせているプラトンがそうしたことに無自覚だったわけがない。プラトンが描いたソクラテスと実際のソクラテスの応対のあり方や思想にどれほどの懸隔があるか、現在の研究でどこまで認められているのか私にはわからない。たしかニーチェはどこかで、ソクラテスの殺害者としてプラトンを批判していた。しかし、体系的な思想などまったく目指しておらず、それについてはこんな話があってね、とそれこそド・クインシーのように逸脱に逸脱を重ねるソクラテスの姿も想像できなくはない。
ド・クインシーが寄稿していた雑誌に1817年に創刊されたブラックウッドがある。『阿片常用者の告白』も同誌に掲載されたものだ。ところで、ポウに「ブラックウッド風の記事を書く作法」という短篇がある。この短篇のなかで、『阿片常用者の告白』は「すばらしい、じつにすばらしい!――荘厳な想像力――深遠な哲学――鋭い省察――火のような激情に満ちみちている上に、断固として理解不可能なものでたっぷりわさびをきかしてあります。一片のフラマリともいうべきもので、読者はさも心よげに舌つづみをうったもんですて」(大橋健三郎訳)と紹介されている。フラマリとは、訳者の注によると、牛乳・卵・小麦粉などでつくった甘い食品だが、「たわごと」の意味ももっているという。
内容は、「人類を、教化する、ための、フィラデルフィア、公認、交流、絶対、茶道、青年男女、純、文芸、世界、実験、書誌学、協会」の客員書記というとんでもない長い肩書きをもつサイキー・ジノービアという女性が、雑誌が刊行されているエディンバラに赴き、創刊者のブラックウッドに記事の書き方を教わる。
ブラックウッド誌でもっともすぐれているのは、「怪奇もの」あるいは「激情もの」とも呼ばれている記事で、怪奇や激情はポオの小説の大きなテーマを成しているから、この短篇は、詩「大鴉」ができあがるまでを詳細に解きあかした「構成の原理」の散文版とも言えるかもしれない。もっともパロディ的、ナンセンス小説的体裁をとっているが。
とにかく、ブラックウッド氏の言うには、まず感覚を書きとめること、しかも誰も出くわしたことがない苦境に自ら落ちこんで、そこでの感覚を書くことが肝要である。さっそくジノービアは首をつろうとするが、けっこうですが、月並みですな、とたしなめられる。主題はそれでいいとして、次に文体の問題がある。文体には簡潔調、昂揚、散漫、間投詞調、形而学調、超絶主義調、それらすべてをこき混ぜた混成調がある。そのほかに、博識らしく見せるために、気のきいた事実や表現があり、フランス語、スペイン語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語、ギリシャ語など断片的でいいから文章にはめこむことが推奨される。
こうした教えを受けたジノービアが混成調で書いたのが、「ある苦境」というポウのもうひとつの短篇である。黒人の召使いと愛玩犬のダイアナとともにエディンバラを歩いていると、ゴシック風の大きな教会に出くわす。ジノービアはその尖塔に登り、エディンバラの全容を見わたしたいという抑えがたい欲望にとらえられる。塔に登った彼女は、召使いの肩を借りて、床から七フィートほどの高さにある四角な孔から首を突きだして、三十分以上も眼下の神々しい景色を眺めていた。ところで、この四角の孔とは時計盤に開いたものであり、そこから時計の針を調節するためのものだった。うかうかと素晴らしい景色を眺めているうちに、まさしく「時の大鎌」たる長針が首に喰いこみ、引き抜くことができなくなってしまうのである。この圧力によってまず片眼が飛びだし、尖塔の急な斜面を転がり、雨樋のなにかにはまり込んだ。しばらくするともう一方の眼も飛びだして同じような道筋をたどった。やがて最後の皮もちぎれ、首が通りのまんなかに落ちていく。
ところが、彼女が感じているのは迷惑を及ぼしていた首を厄介払いできたという幸福感なのだ。二つに別れたジノービアはどちらも自分の方こそ本当のジノービアだと思うのだが、なんとも曖昧である。いつものように嗅ぎ煙草を吸おうとしたのだが、鼻のある首がないのに気づき、首の方へ投げてやる。「首はしごく満足げに一ひねり鼻にあてがうと、感謝のしるしに私に向かってほほえんでみせた」というのだが、いったいどうやって首は嗅ぎ煙草を鼻にあてがい、胴体はどうして首のほほえみを知ることができたのだろうか。しかしないはずの手足に痛みや痒みをおぼえる幻肢のように、幻首あるいは幻胴体というものがあって、嗅ぎ煙草の臭いも胴体が見たほほえみもそうした感覚を正確に書きとめたものかもしれない。
起こりうるはずのない出来事が異様に鮮明な感覚を伴っているポオの描きだす世界は夢に似ている。『マルジナリア』のなかでポオは、善人は死後もなお存在するが、悪人は死ぬことによって絶滅するという面白い世界観を提示している。善悪、つまり死後も存在するか絶滅するかは夢の量によって判断される。夢とは死後の世界を開示するものであり、夢の多寡によって魂のある種の耐久性とでも言えるものが示される。
だが、より興味深いのは、同書のなかで、「影の影」と名づけられているある種の「幻想」である。この「幻想」は、夢と現のあいだの魂が極度に落ち着いた瞬間にしか訪れることはない。思想は時間の持続がなくてはあり得ぬものであるから、それが思想でないことは明らかである。「かういふ『幻想』は、快い恍惚感に伴はれて来る、そしてその快さは、醒めて居る時、或ひは夢の世界の、どんな快さよりも、遙に、北欧人の天国がその地獄から離れて居る程遙に優れたものである。」(吉田健一訳)
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