2014年4月9日水曜日

ブラッドリー『論理学』22

 第一巻判断第一章判断の一般的性質から。

 §22.こうした心理学の難問を詳細に議論することは興味深いことであるが、より確かなことに進んだ方が報いは大きいだろう。第一に、誤った観念の保持は現実との比較を促し、あらわれ、真、偽の知識へと導く。第二に、言語はそうした真偽の源ではないが、少なくともその対照を確実にし先鋭化する。集団をなす動物が観念を言葉にできたら、ある意味その言葉は思考よりも永続的なものであり、それが表現しようとした事実に対して自律したものとなろう。異なった個人の言葉にされた考えはときに衝突するものである。それらは互いに異なっており、単純な事実についても同じではない。嘘や欺瞞の濫用はどんな頭の鈍い者にも言葉や観念は可能だし真でもあり得るが、幻影で事実との関わりの全くない非実在的なものともなり得ることを理解させる。この点において、言葉と思考は他のものとは異なることが見て取れる。それらは存在するだけではなくなにかを意味するのであり、その意味だけが間違っていたり正しかったりする。それらはシンボルであり、こうした洞察が厳密な意味において判断を形づくる。

 もう一度繰り返すが、初期の段階においては、イメージはシンボルでも観念でもない。それ自体が事実であるか、事実がそれを放逐する。知覚においてあらわれる実在は観念を自身に結びつけるか、単にそれを実在の世界から追い払う。しかし、判断は、観念があらわれだと認めてはいるが、にもかかわらずそれを性質づけようとする。それは観念を実在に配し、それが真であることを肯定するか、それが単なる観念であること、事実がその意味するところを排除することを告げる。事実でもある観念内容、現実にはなにも意味しない観念内容がそれぞれ判断においてあらわれる真と偽である。

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