§24.英国では、「経験の哲学」の真理の伝統に忠実なあまり偏見が積み重ねられ、ほとんど事実に対する訴えかけが無効になっているのではないかと私は恐れる。しかし、私はいかに無益なことであろうと事実を述べるつもりである。個々のイメージが連合するというのは真実ではない。低次の動物において普遍的な観念が決して用いられないというのも真実ではない。決して使用されないのは個的な観念であり、その連合で、個別性が刈り取られる過程以外では何ものも連合されることはない。最後の言葉については以下において詳述しなければならないが、ここでは、個的な観念が原始的な精神に最初から備わったものだという誤った主張を扱うことにしよう。
第一に、低次の動物が個物について観念を有していないことは歴然としているように思える。ある事物が世界に一つのものであること、他のすべてのものと異なっているのを知ることは、単純な仕事ではない。それに含まれる識別について考えてみるなら、それが精神に後になってあらわれたことがわかるに違いない。そして、事実に立ち戻ってみると、我々は優秀な知性をもった動物たちが明らかにそれをもっていないこと、あるいは少なくとも、それを有していると考えるに足るどんな根拠もないことを見いだす。過去の知覚から生じ現在の知覚を変容する非限定的な普遍、曖昧に感じとられる型は、明らかに彼らの知的経験の過程である。幼い子供がすべての男性を父さんと呼ぶとき、子供が父親を個的なものとして知覚し、他の男性も個的なものとして知覚するが、当座はついていた区別が混乱するのだと仮定するのは、事実の歪曲以外のものではない。
しかし、これはいま問題になっている本当の論点を指しているとはいえない。個物を知ることは精神段階の後の達成だとは認められるだろう。粗雑な知性にとっては、ある型の観念をもち、それに合わないものを排除した上で、この型を唯一無比の個物と認めることはほとんど不可能である。実際に問題となっているのは、初期の知識においてつくられたイメージの使用法についてである。それは普遍として使われているのであろうか、それとも個物として使われているのであろうか。
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