2014年4月15日火曜日

幸田露伴『七部集評釈』19

      蝶は葎にとはかり涕かむ  芭蕉

 『源氏物語』の末摘花の君が、世に見捨てられ、宮仕えの人もなくなり、住んでいるところも葎に荒れはてたのを、昔をなつかしく思って訪れてきた人に、前句の尼が語ろうとして悲しむ様子だという古解はよくない。前々句の人と前句の二の尼が相語って、この句はその答えと答えるさまをあらわしたとするためにそうした解釈も生じる。すべて連句の方は前句に付け、前々句に糸のように連なり、輪のように巡ることは非常に忌むべきこととされており、決して前々句には関わらないものである。もしそうでないなら、連句は物語のようになり、ただひとつの出来事を描くに止まり、なんで多くの人間が集って行なう興があろうか。「涕かむ」は泣くである。前句は、近衛の花の様子などまったく知らない人が、昔は宮仕えしたという老尼を春のうららかなるとき、尋ね様々なことを聞くうちに、その老尼が、庵の前の葎にとぶ蝶を見つつ、自分も昔は身の軽い蝶のように輝く春の庭の花のあたりにも往き来したものだが、いまはこんな葎の庵に潜んで年を経てしまった、と問われもしないことを述懐してしまうのも老いの癖と、鼻をかみつつくだくだしく訴える滑稽の悲哀をいったものである。よくよくこの句を味わうと、哀れさとおかしさが絡みあって、春昼の老尼が昔の夢を思う無限の情景わきでて尽きることがない。

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