『鬣』第35号に掲載された。
「人はしばしば坊主を憎み、尼を憎み、回教徒を憎み、キリスト教徒を憎む、だが道士は憎まない。/ この理くつが分れば、中国のことは大半わかる」(「而巳集」増田渉訳)と魯迅は言ったが、道教は実に茫漠としている。厳密には、老荘思想と神仙思想と道教とは区別されるものなのだが、それらをすべて呑みこんだ「一大貯水池」(幸田露伴)となっているのが道教なのである。
そもそも宗教とはいうものの、なにが崇拝されているのかもよくわからない。アンリ・マスペロによれば(『道教』川勝義雄訳)、最上位の天宮である紫微宮は、そこだけで五億五万五千五百五十五万階を有し、各階には事務局があり、そこにはそれぞれ五億五千五百五十五万人の神官がいるのだという。それらの神官とどういう関係をもつのかよくわからないのだが、神は三万六千いると言われているらしい。八百万神と言われる日本の神も数こそは多いが、祖先や特定の場所に結びついたものであり、各個人の信仰対象としてはわかりやすいものだ。もちろん、道教にも土地神はおり、各地方で独自な祭祀が行なわれている。しかし、そうした結びつきが一般的というわけではないらしい。というのも、この三万六千の神は、天宮からしばしば下界におりてきて、世界各地の山や洞窟を仮の住家とし、道士たちの探求を更に遠くまで導いてくれもするのだが、同時に我々の身体のなかにも存在するからである。
頭は天の穹㝫、足は四角い大地、伝説上の聖山であり天を支えるとされる崑崙山は頭蓋骨、天のまわりを廻る日月は両の眼、静脈は河、膀胱は海、髪と毛は星辰、歯のきしむ音は雷のとどろき、といった具合で、身体のなかに世界が入れ子として組み込まれており、そこにも神々が見いだされるという。こうした世界観が特有の食餌法、呼吸法、練丹術などにつながっていくのだろう。神的なものと卑俗な身体的なものが直接に結びつくのも道教の面白いところである。
後漢の黄巾の乱のころの『老子』のある注釈に至っては、冒頭の言葉「道の道(い)う可きは、常の道に非ず」(小川環樹の訳では「『道』が語りうるものであれば、それは不変の『道』ではない」とされている)が、「道の道う可きは」は朝、おいしいものを食べることであり、「常の道に非ず」は、夜、便所に行くことである、といった玄妙な真理を即物的な身体に直結させるような珍妙な注釈がつけられているという。とにかく、外界にも、各人の身体のなかにも日・月・河・海・雷などの神々がいるわけであり、氏神や土地神を祀るような具合にはいかないのだ。こうなると同じ神々が人間の数だけいるということになるが、その仕組みも実は判然としない。「この問題は、道教徒が後になってからしかとりあげなかったように思われる。そのときかれらは、自分たちの神々のために、仏陀や菩薩がもっている『分身』という力を仏教から借りた。しかし古い時代の道教徒たちは、この事実を容認するだけにとどまり、それ以上の反省をしていない」とマスペロは書いている。
「仏教から借りた」とあるが、仏教と道教は親和性が高い。もちろん、教理上または方術の成果をめぐって対立・議論の歴史もあるのだが、時代が下がれば下がるほど、両者は渾然となっていくかのようである。たとえば、清代の小説『紅楼夢』では混在している様子が顕著である。中国神話の創世神である女媧が天の破れを補うときに、大荒山で錬成した石が三万六千五百一個あったが、そのうちの三万六千五百だけ使い、一個だけは棄てられてしまった、というのが小説の発端である。錬成されて霊も通い歩くこともできる石は自分だけ棄てられてしまい悲嘆に暮れていた。それに行き会い、「形はまあ霊性をそなえた美玉だがな!ただ実性がどうもそなわっとらん」(飯塚朗訳)と言って、その石を長安の大貴族の家にもたらし、この大家族の盛衰を経験させるのが僧侶と道士の二人連れなのである。この二人連れは狂言回しのように、小説の各所に現われ、未来を見通したものとして登場人物の将来を暗示したり、ちょっとした手助けをすることもある。
また、主要な一族のひとり、「寧国邸の賈蓉の若奥さま」が死んだときの葬式では、喪を発してから四十九日間、大広間に百八人の僧侶を招いて誦経してもらい、天香楼の壇では九十九人の道僧が十九日間罪業消滅の供養をする。遺体を移し、五十人の仏僧、五十人の道僧が七日ごとに法事を営む。また、三十五日目には、僧たちは地獄菩薩に頼んで三途の川の渡しを開いてもらう、道士たちは天帝に奉る上奏文を読み上げ、禅僧たちが香を焚き祈祷の文句を唱え、十二人の若い尼僧たちは、縁取りした衣をまとい、赤い沓をつっかけて、死者を極楽浄土へ導くための呪文を黙唱するといった具合で、死者が地獄に行くのか極楽に行くのか、はてまた天界に行くのかさえわからない、あるいはどこへ向かうにしても対応できるような準備がなされているのかもしれない。
仙人もなかなか奇妙な存在である。キリスト教の聖人や仏教の聖僧などは信者たちに生活の規範を与えてくれる。それは彼ら自身がキリストや仏陀の教えを仲介しかつ実践する者だからである。聖書や仏陀の言葉が究極的な教えとしてあるから、遅疑逡巡はあるにしても、師の教えに従って向かう方向は見やすいだろう。ところが、道教の場合、究極的な言葉はないから(老子でさえ後になって神格化されただけの、神々のうちのひとりでしかない)信者全体の共有認識もない。神父や僧侶が説教するとき、たとえそこにいるのは自分の教区のそれ程多くもない人数であるにしても、可能性としてはすべてのキリスト教徒、すべての仏教徒に届くような説教にしようと努めるだろう。
道教には三万六千の神がいると先に述べたが、道士はそれぞれ別個の神をもっており、それらを共有しているわけでもない。降霊術の霊媒が、自分を導き、コントロールする精霊をもっているのに似ている、とマスペロは述べている。それに入門したての道士たちが関係をもてるのは、神々のなかでも位が低く、人間に近い低級な仙人が多いらしく、より高位の神々とは顔を合わせることすらできないのである。つまり道士それぞれが関係をもてるのは、自分より下位や同位か、ちょっと上の先輩に限られているわけである。
そうした先輩の教導によって、どこまで続くかわからない階梯をのぼっていくのが道教の修行というわけだが、最終的にはどんな境地に至るのだろうか。キリスト教の聖人伝では、信仰が奇跡によって報いられて終わるというパターンが多い。超自然的な神は現世では報いられなかったかもしれない彼の信仰や善行を見ていたのであり、その証しが奇跡となってあらわれる。「主のみむねに従って」生きていたことがあきらかになる。いわば神とのつながりを明示できたものこそが聖人と呼ばれるのだ(あくまでも『黄金伝説』のような中世の聖人伝の話だが)。
神仙伝のたぐいを見ると、仙人の多くに共通しているのは長生と空を飛ぶことであって、たしかに現実の我々の姿を顧みればそれも奇跡には違いないが、あくまでそれは長年にわたる身体的な修行の成果なのであって、超越的な神の啓示ではない。長生も空を飛ぶことも、それ自体ではなんら倫理的な意味をもたないから、神仙伝を読んでいてもそこに登場する仙人たちが、果して尊敬すべき立派な「聖人」であるかは軽々に判断を下せないのだ。山のなかから引っ張り出され、寄席に出て仙術を披露し、金が儲かるに従いだんだん横着になっていく落語の『鉄拐』ほどではないが、宮廷に迎え入れられて満更ではない様子の仙人も神仙伝のなかには登場する。
長生や空を飛ぶことは倫理的意味をもたないといったが、もちろんそれらは道教徒の唯一の模範である自然をまねぶことであろう。長生は自然が常に変らないことを、空を飛ぶことは自然が流動的に変化し続けていることを習得して得た業であり、自然に学び同一化せよ、という倫理はあることになる。長生や空を飛ぶことを越えて、自然のことを体得しつくした「神人」がどのような存在であるかは、マスペロが「坐忘論」の一節を引用している。
完全な力をもつ道は、身体(形)と精神(神)を変える。身体は道に貫通されて、精神と一つになる。身体と精神が合体して一つになった人は神人とよばれる。そのとき、精神の本性は空虚で、昇華しており、その実質は変形によって破壊されることがない(すなわち死なない)。身体は精神に全く等しいから、もやは生も死もない。目につかなくても実際は、身体が精神に同じく、表面的には精神が身体に同じである。水のなか、火のなかを歩いても、害を受けることがない。太陽に向かって立っても、(身体は)影をつくらない。生きつづけるか、死ぬかは、かれ自身の自由であり、往くと帰ると(すなわち、死ぬのとまた生きかえるのと)のあいだに中断がない。泥にほかならぬ身体も、「すばらしい空虚」(の状態)に到達しているようだ。いわんや、超越的認識が、深さにおいても拡がりにおいても、いよいよ増大してゆくことはいうまでもないのだ!
なんとなく、『ウォッチメン』のDr.マンハッタンを連想させるが、生も死もなく、影も産みださず、水のなかも火のなかも自由に動きまわれる神人が我々の現実の生活に通用するようなどんな倫理的教えをもたらしてくれるか皆目見当がつかない。食餌法呼吸法ならまだしも、具体的な社会関係のなかで自然に従った行動を取るとはどういうことなのか、自前の術で社会との関係なしでもなんとかできる仙人たちではどうも参考にならないのである。そうなると道家的な思想を実際に生きた人びとに目が向くことになる。
『史記』の列伝には老子の伝があり、それによれば、老子は楚の苦県の人で、周の宮廷にある図書館を管理した記録係だったという。孔子が礼について問い、「きみの高慢と欲望、ようすぶることと多すぎる志をのぞくことだ。そんなことはどれもきみの身にとっては無益だ。わたしがきみに教えられることは、それくらいのことだ」(小川環樹訳)と老子が答えたというが、これは事実としては疑わしいという。周の都に長いあいだいたが、周の国力が衰えると、立ち去って関まできた。関はいまの陜西省にある函谷関、あるいは散関だという。そこの関令尹喜に「あなたはこれから隠者になられるのでしょう。わたしのために無理とは思いますが書物を書いてください」と頼まれて残したのが『老子』だったという。このくだりをブレヒトが「老子遁世の途上における『道徳経』成立の由来」でユーモラスな詩にしている。後半だけ引用する。
10
慇懃な頼みである。無下に断るほどには
老師は若くはなかったらしい。
なぜなら声高に言ったのである。――「問う者には
答えるのが当然」童は言った――「寒くなりますし」
「よかろう。ほんのしばしの休息なれば」
11
そこで賢者は牛の背を下りると、
七日にわたり二人して書いた。
税吏は食事をはこんだ(この間ずっと
密輸者をののしるにも声をひそめた)
かくして仕事はすすめられた。
12
かくてある朝、童は税吏の手に、
八十一句の箴言をわたしてやった。
それから僅かな餞別をおしいただき
松のかなたの岩陰に曲がって行った。
「またとない饗宴(もてなし)であった」とささやきながら。
13
僕らはしかし、ただもてはやしはしない。
表紙に載ったその名もまばゆい賢者ばかりを。
賢者の賢は他人(ひと)の手でしか発揮されない。
ゆえに税吏よ、君にもとくと感謝しよう。
君が求めてこれらの文を綴らせたのだもの。」(矢川澄子訳)
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