第一巻判断第一章判断の一般的性質から。
§25.どちらの側に立っても、心的存在としての観念は他のあらゆる現象と同様個物であることは認められる。論議はその使用に限られるのである。私は、それが個物にとどまっている限り、単純な事実であり、観念では全くないと主張する。そして、経験を敷衍したり変容したりするために用いられるときには、決して個的な形で用いられないのである。A-Bが知覚にあらわれるとき、過去の知覚の結果であるB-Cが個的なイメージb-cとしてあらわれ、呼び起こされたこれらのイメージが現在のあらわれに結びつくのだと言われている。しかし、これ以上の誤りはあり得ない。bとcの個別性を形づくるしるし、関係、相違がA-B-Cの合成のうちにあらわれる、あるいはどのようにしてか、それを生みだすために用いられるというのは真実ではない。そのcとしての内容を別にしたイメージcは心的現象の非限定的な細部をもっている。しかし、A-B-Cにおいて使用されたのはそれではなく普遍としてのcであり、知覚A-Bがそれによってcを再個別化する。もしそうなら、実際に働いているのは、普遍的観念間のつながりだと言わなければならない。我々は、無意識にではあるが、明示されたときには既にシンボルの意味を有しているのである。
後の章でこのことははっきりさせようとは思っているが(第二巻第二部第一章を見よ)、問題が重要なので、あえていくつかの例を挙げておきたい。昨日私の犬が猫を追いかけたか敵と戦ったかした場所に今日着き、その知覚が観念を「呼び出し」、犬は必死に駆け出そうとする。彼の経験は白い猫か、大きな真鍮の首輪をした黒いレトリバーのものであったろう。今日のイメージは多分それほど明確には「呼びだされ」なかったが、いくつかの細部は確かにあり、それが経験を再現するのだろうと我々は思う。今日はそこに黒い猫がおり、犬の方はいつもと変わらなかったとしよう。白いイメージはまったく見当違いのものである。あるいは今日は別のもう一匹の犬がいて、ただその犬が同じようにしてにらみつけるので、私の犬がそれを攻撃するとき、彼は知性ではなく行動においてより普遍的だということになる。というのも、全体のイメージではなく、内容の一部が彼の心では働いているからである。彼は小さな犬、白い犬、毛並みのいい犬には目をとめないかもしれないが、そのとき、大きさ、黒さ、毛並みの荒さは典型的な観念として確かに彼のうちで働いているだろう。確かに、観念は個物であり、それは知覚とは異なり、それを区別できないことが動物の欠点だと言うことはできる。しかし、なぜ区別することに失敗するのだろうか。テリアくらいの知性があれば、白の猫と黒の猫、ニューファウンドランドと牧羊犬の区別くらい見てとることができないだろうか。「いいや」と言う者があるかもしれない、「注意を向けさえすれば彼にはできる、たとえ両方ともいたとしても、彼は注意を向けていないのだ」と。しかしもしそうなら、相違が用いられず働かないままに残されているなら、それは働いているもの、使われているものが、相違のなかで永続し、後に普遍的な意味となる内容の一部だということの明らかな証拠ではないか、と私は言わなければならない。
また、ある動物がある日台所の火で火傷をしたら、次の日には火のついたマッチを怖がるかもしれない。しかし、二つのことはいかに異なっていることか。似ているところより異なっているところが多い。マッチの火は最初に召喚され、それが台所の火と混同されることがないと影響を及ぼさないとでもいうのだろうか。あるいは、個別的なものではない要素間のつながりが最初の経験によって心に生みだされるとでもいったほうがいいのではないだろうか。しかし、もしそうなら、最初から普遍は用いられ、事実と観念、存在と意味の相違は発達していない知性においても無意識に働いていたのである。
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