『老子』は、『荘子』とは異なり、抽象的で、なかなか具体的なイメージをもちにくい章句が多い。だが、第六章などは難解で、しかとなにを指しているかはわからないものの、魅力的なイメージを喚起するものだろう。
谷神は死せず、是れを玄牝と謂う。玄牝の門、是を天地の根と謂う。綿綿として存するが若し。之を用うれども勤きず。
小川環樹は次のように訳している。
谷の神は決して死なない。それは神秘的な牝と名づけられる。神秘な牝の入り口、そこが天と地の(動きの)根源である。それはほそぼそとつづいて、いつまでも残り、そこから(好きなだけ)汲み出しても、決して尽きはてることがない。
「谷」と「穀」とは同音であって、「谷神」は「穀神」であり、万物を生成する神だと解釈する説(武内義雄)もあるらしい。だが、小川環樹は、「水は第八章にもみえるように、柔弱で自己を主張しない。しかもあらゆる物をおし流す大きな力のあるものの象徴であり、水のたとえは『老子』のいたるところにあらわれる。水は低いところに集まり、水の集まる場所が谷であるから、谷には水の力が集中しているわけで、その神の巨大なはたらきも理解できる。」とし、「『綿綿として・・・・・・』の句は、谷川を流れる水が、ほそぼそとしていても尽きないありさまを、心に想い浮かべつつ、無力にみえて実はそうでない、ある永遠のはたらきを説こうとするのである。」と解している。
「牝」は雌である。となると、世界を生みだした母神、しかも水のイメージを湛えた水神的性格をあわせもった母神についての神話伝説の名残りを老子の言葉の背後に認めることができるかもしれない。津田左右吉は、儒教にはその痕跡すら見当たらない『老子』の宇宙生成論は、民間説話から取り入れたものではないかと推測している。
全体に「老子」、従つて又た一般の道家、の言説には民間的色彩が可なり濃厚であるので、「老子」に往々、母子とか、雌雄とか、牝牡とかいふ語が用ゐられ、又は腹、骨、目などの肢体、もしくは谿、谷といふやうな地相の名が取つてあり、「谷神不死、是謂之玄牝、玄牝之門、是謂天地根、」(六章)といふ有名な句も作られてゐる如く、一種特殊の表現法のあるのも、亦た或は俚諺俗話などに何かの由来があるのかも知れぬ。単なる譬喩の言としては頗る調子外れであり、又た他の典籍に類例も無いから、これは別に本づくところがあらうと思はれるからである。俚諺の興味は世相の裏面を穿ち、処世の道を示すところにあり、世故に長けたものの体験から出たものであることを思ふと、「老子」が俚諺から取つたところは、単に其のいひかたばかりでは無かつたことをも参考するがよい。
(『道家の思想と其の展開』)
確かに、母子、牝牡、肢体、地相などの語は、儒教には見られないものであり、こうしたある意味生々しい言葉が幽邃な宇宙論に結びついているところに『老子』の魅力があると言える。富士川英郎は「谷神不死」(『萩原朔太郎雑志』所収)というエッセイのなかで、『老子』の言葉の裏に原始母神への信仰を見てとった文章に石田英一郎の「桃太郎の母」があり、その説がドイツの中国学者エルヴィン・ルッセールの「龍と牝馬」という論文によるものであることを指摘したうえで、そのルッセールが訳した『老子』第六章を紹介している。
泉のわく谷の神は死なない
それは神秘な獣の女神である
神秘な獣の女神の胎は
天と地の根元である
絶えることのない絲のようにそれはいつまでも尽きず
なんの苦もなく作用いている。
「神秘な獣の女神」となると、ぐっと具体的なイメージになるが、獣と限定されることによって、女性原理そのものをぎりぎりのところで「玄牝」とした表現を甘くしてしまっている印象をもつのも確かである。
ところで、「谷神不死」というエッセイは、同名の萩原朔太郎のエッセイを紹介する文章である。このエッセイは雑誌「文章倶楽部」の昭和二年五月号に載ったもので、現在は筑摩書房版の『萩原朔太郎全集』第八巻に収められているが、それ以前はどんな単行本にも収録されなかったものらしい。実際、私がもっている新潮社版の『萩原朔太郎全集』(全五巻)には収録されていない。萩原朔太郎にとって、老子は重要な名前のひとつであり、『絶望の逃走』(昭和十年)というアフォリズム集の「偉大なる教師たち」という項目では、ドストエフスキー、ニーチェ、ポー、ボードレール、ゲーテ、ショーペンハウエルと並んで老子があげられており、「老子は大自然の山嶽であり、支那の国土が生んだ玄牝である。彼の居る思想の谷には、永遠不死の谷神が住み、宇宙と共に夢を見て居る。」と書かれている。また、昭和三年に刊行された第一書房の『萩原朔太郎詩集』の「『青描』以後」には、老子をテーマにした詩がある。
桃李の道
――老子の幻想から
聖人よ あなたの道を教へてくれ
繁華な村落はまだ遠く
鶏や犢の声さへも霞の中にきこえる。
聖人よ あなたの真理をきかせてくれ。
杏の花のどんよりとした季節のころに
ああ 私は家を出で なにの学問を学んできたか
むなしく青春はうしなはれて
恋も 名誉も 空想も みんな楊柳の牆に涸れてしまつた。
聖人よ
日は田舎の野路にまだ高く
村村の娘が唱ふ機歌の声も遠くきこえる。
聖人よ どうして道を語らないか
あなたは黙し さうして桃や李やの咲いてる夢幻の郷で
ことばの解き得ぬ認識の玄義を追ふか。
ああ この道徳の人を知らない
昼頃になつて村に行き
あなたは農家の庖廚に坐るでせう。
さびしい路上の聖人よ
わたしは別れ もはや遠くあなたの沓音を聴かないだらう。
悲しみしのびがたい時でさへも
ああ 師よ! 私はまだ死なないでせう。
『史記』列伝の李将軍の賛にある、徳のある人間のもとには自然に人が集まることを例えた「桃李もの言わざれども下自ら蹊を成す」という表現も念頭に置いているのだろうが、慕わしくまた懐かしい人物として老子が描かれているのは興味深い。
仏陀
或は「世界の謎」
赭土の多い丘陵地方の
さびしい洞窟の中に眠つてゐるひとよ
君は貝でもない 骨でもない 物でもない。
さうして礒草の枯れた砂地に
古く錆びついた時計のやうでもないではないか。
ああ 君は「真理」の影か 幽霊か
いくとせもいくとせもそこに坐つてゐる
ふしぎの魚のやうに生きてゐる木乃伊よ。
このたへがたくさびしい荒野の涯で
海はかうかうと空に鳴り
大海嘯の遠く押しよせてくるひびきがきこえる。
君の耳はそれを聴くか?
久遠のひと 仏陀よ!
たとえば、同じ「『青猫』以後」で、数篇後に置かれている「仏陀」は老子にくらべるとだいぶんよそよそしいものになっている。「むなしく青春はうしなはれて/恋も 名誉も 空想も みんな楊柳の牆に涸れてしまつた。」と自分の胸中を語ることもないし、「聖人よ」と呼びかけることもなく、桃や李の花が咲き、娘の機歌が遠く聞えてくるような牧歌的かつ夢幻的な風景が拡がっているわけでもない。関の関所の監督官である尹喜に頼まれて書いたという『史記』の記述が歴史的事実であるかどうかはともかく、『老子』という書物がひととの偶然の出会いによって成立していることがパーソナルな慕わしさを老子に感じさせることになっているのだろう。彼は、宗教的確信をもって、自らの教えを無数の群衆に向けて語ったわけではなかった。
ちなみに、郭沫若は『歴史小品』のなかの一篇、「老子 函谷関に帰る」で老子と尹喜の後日談を小説にしている。尹喜は老子の薫陶よろしく、人を避けて隠遁生活を送っている。そこに老子が戻ってくる。手には牛の尻尾を握っている。老子が絵画に描かれるときには牛にのった姿であることが多いが、その尻尾はまさしく老子が旅立っていったときの牛のものだ。老子は水も草もない砂漠で牛が倒れてしまったこと、与える食べものもなく、なすすべもなく見守ることしかできなかったこと、しまいには自分も空腹に耐えられなくなり、牛の太腿を切りつけると、その血を飲んで命をつないだことを語る。そして、「わしは完全に利己主義の小人なのだ。わしのこの書物は、完全に偽善の経典なのだ。わしは、自分が天下唯一の直なる人間であることを見せたいばかりに、ことさらに西の方に道をとったのだ。砂漠に行って特異さを目立たせてやろうと考えたのである。やれやれ、わしは大きなそろばん違いをした。門を出ずにいては、結局、天下を知ることはできないものだ。かなしいことに、わしが想像していた砂漠と、現実の砂漠とは、完全に別のものであった。」(平岡武夫訳)と自分の思想を完全に否定し、「人間界に帰って行って、まじめに、ひとつ、人間の生活をしようと思う」と言うや、人を誤らせるものだといって自分の書いた『道徳経』を持ち去ってしまうのだ。残された尹喜は、「歴史あって以来の大賊(哲?)老子め、きさまはその『偽善経』を抱えて行ったが、また本屋に行って、麦餅をいくつかかたりとるのだろう。フン、・・・・・・」と毒づく。思いきって老子を俗物にしたのが工夫だが、理論と現実との相違というごく平凡なテーマに落着いてしまっているとも言える。
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