§20.瞬間のあらわれ、感覚対象は過去の経験の世界において受け入れられ、過去の経験は観念を誘引する形式としてある。最も低い精神の段階でも、最高時の精神にあるように、与えられたデータとつくりだされた構築物の間には明確な相違がある。しかし、心のなかにそうした相違があることとそれを知覚することとは別のことである。初期の知性には、感覚と観念のこの対照はまったく存在しない。ABというあらわれがdという感情を引き起こすことで、δεという行動を生む、あるいはb-dという観念の移行がABDに変わる、gがBを打ち消しcが加えられれば、a-gという行動によってACになる。しかし、こうした例において、他の可能などんな例を取っても、過程は完全に隠れたままである。生みだされたものは、他の感覚事実と同じレベルの所与の事実として受けとられる。
最初に知覚された対象が、最終的に構築された対象と比較されることができるなら、事実が実際に起ったことなのか心によって作りだされたものなのか疑う余裕ができることになる。ましてや、知覚が捉えなかった観念が伴っているかどうかについてもである。拒否された連想、矛盾する付け足し、間違った解釈、後悔の残る行動が心の前に留め置かれるとき、反省が始まり、それは発達のゆっくりとした結果には先立つものだろう。錯覚の感覚は観念と現実の、真と偽の対照を呼び覚ますことになろう。しかし、こうしたことはすべて不可能である。というのも、初期の心の主要な特徴は完全に絶対的に実践的なものだからである。事実は直接的な行動を生みだす以上に魂に場所を占めない。過去と未来は現在の変形として以外には知られていない。与えられたもの以外には実践的な関心を呼ぶものはなく、関心のないものは存在しないのである。かくして、何ものもその元々の性格を保持するものはない。現在の欲望との関係にある対象は過去の冒険が失敗したか成功したかに合わせてたゆみなく変化する。それぞれの場合に合わせて縮小したり拡大したりはするが、所与の対象のままであることは変わらない。そして、それに同化した観念があらわれの一部となり、それが排除した観念は単に存在しないことになる。
精神のより後の段階、知性をもった野蛮人の夢の世界の教義は、存在はするが非実在的である観念というのがすっきりと容易に理解される考えではないことを痛感させる。犬くらいのレベルになると、理論的な好奇心の欠如に行き当たる。あらわれとして見ることができなくなれば、それはすぐに非実在となってしまう。観念は対象の影だと言うことができる。野蛮人にとっては別の種類の対象であり、犬にとっては事物であるか何ものでもないのである。犬は、多分確実な結果にたどり着くことはないだろうこの反省の過程に入ることもない。彼らの心が困惑し虐げられ、とても我慢できないような状況になっても、彼らはいまいるのとは違う別の世界に希望を繋ぐことはできないし、いま目の前にあって感じられるものは魂にとっては何の関係もないものなのだと信じ、それを呪文のように繰り返すことも夢見ることもできない。私には彼らの実際的な苦しみを彼らの心に満足のいくようにどう解決したらいいのかわからない。しかし、彼らの論理体系は、もしもっているのなら、単純なものだろう。というのも、「匂うものは存在し、匂わないものは存在しない」という公準によって始まり終わるものであるのは確かだろうからである。
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