§23.我々が述べてきたことは、心理学的な移行を順を追って述べることではなく、諸段階と諸機能の違いを明らかにすることだった。最後に、我々は致命的ともなる誤りを未然に防ぐよう努力しなければならない。判断をする精神段階と、真理に気づいていない精神段階の間の裂け目は橋を架けるのが困難で、我々の考察は事実をばらばらにしているように思える。自然の条件下ではどんな進歩も可能ではなく、天与の能力でどうにか段階を上がっていくのだとすると、我々は窮地に陥っていると考えられる。我々は、一方では、普遍的である明確な観念をもち、他方では、機械的な誘因の法則によってグループ分けをされる個的な印象とイメージからなる精神をもつことになる。こうした区別は事実上の断絶に等しい。いま述べたような高次の段階は存在することができないか、あるいは少なくとも、低次の段階から発達することはできない。
以下の章で私は「観念連合」の全教義を批判するだろうが、ここではそれを先取りするしておこう。もし精神の低次の段階が多くの英国の心理学が述べるようなものであるならば、観念が判断において使用されるような段階に到達することはどうしても不可能だということは私も認める。これは私が強調し力説したい結論でもある。しかし、「連合」の流行の教義、個々のイメージが個々のイメージよって呼びだされ、それと結びつくという教えは、いかなる精神の段階においても真実ではない、と私は思う(第二巻第二部第一章を見よ)。我々の心理学以外にはそれは存在しない。魂の生活の最初期から普遍は用いられている。経験の結果が観念や普遍的なものに固定されているからこそ、動物は、進歩するとは言わないが、剥き出しの存在のなかで身を持していくことができる。
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