§1.前の章では、我々は判断の主要な特徴を簡単に記そうとした。この章は我々の結論を支え深めることとなろう。ここで扱われる問題は、部分的には、ヘルベルトによって提起されたよく知られた議論に出くわしたことのある者にはおなじみのものだろう。この章の長さと難解さでは成功はおぼつかないが、長さにしろ難解さにしろ、この問題の現代論理学における重要さが十分正当化してくれているのだとあらかじめ言うことを許してもらわなければならない。
判断はなんらかの事実や実在について何ごとかの述べている、と我々は自然に仮定している。それ以外のことについて肯定しようと否定しようと、そうした判断は取るに足らない主張となろう。我々はなにか言うだけではなく、現実のなにかについて言わなければならない。このように考えると、判断は真か偽でなければならないが、その真や偽は判断自身のうちにはあり得ないことになる。それは判断を越えたなにものかへの参照を含んでいる。そして、我々が判断をするそのものは、事実以外のなにがあり得るだろうか。
客観性や必然的つながりについての意識には、判断の本質があると言われることもあるが、最終的にはその意味を実在への参照から引き出しているのがわかるだろう。真理とは、ある意味、真であることを強制されなければ必然的ではない(第七章を見よ)。強制は強制するなにかがなければ可能ではない。その力をふるうのが実在で、判断はそれについてなされる。実際、S-Pそのものが事実に関して定言的に真であることを我々は主張したりしないし、それは我々の判断ではない。実際の判断は、S-Pは実在であるxによって我々の心に強制されるものだと主張するのである。それがどのようなものだろうと、この実在が判断の主語である。客観性についても同様である。S-Pというつながりが私の判断の外側にあるなら、それはどこにもないのとほとんど変わらない。それはなにかとの関わりで正当なものとなるのであり、そのなにかとは実在でなければならない。疑いなく、S-Pはこの事実の直接的な真実とはなり得ない。それもまた我々の主張することではないのである。実際の判断は、S-Pがxとの関わりのうちにあることを主張する。そして、再び、これは事実についての主張なのである。
確かに、真実が実在についての真でなければならないという自然な仮定が存在する。僅かの反省で達することのできるこの結論は、この章の結論でもある。しかし、それに到達するためには苦闘があり、問題の精妙さに悩まされることがあり、ある点では恐らく幻滅や動揺に襲われることもあろう。
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