2014年4月17日木曜日

無関心と嫌悪感――ラーメンと私

 『鬣』第35号で「ラーメンと私」という特集があって書いた。

 私はラーメンに関心がない。もっと正確に言うと、ラーメンについて語ることに関心がない。純粋に食べものとしてラーメンを麺類のなかで順位づけてみると、蕎麦よりははるか下、うどんよりもまだ下、焼きそばや冷麺よりはちょっと上というところだろうか。たまに家で食べることもあるが、もやしやキャベツなどの野菜と豚肉を相当量炒めて乗せるので、醤油ラーメンだろうが味噌ラーメンだろうが豚骨ラーメンだろうが、すべて外貌はタンメンになるのだ。

 外で食べることも滅多にない。今年はまだ一度もラーメン屋に入っておらず、記憶している限り、去年も一度しか入っていない。学生のときにはよく(といっても月に一度くらいか)、その独特の豚臭さとゴムのような麺の食感が好きで熊本発の桂花ラーメンに行った。なぜか新宿に三店も店をだしていて、末広亭の近くの店に行くことが多かったかしら。いまでもその味が懐かしくなることがあるが、なにしろ新宿を通ることがあまりなくなってしまったので、懐かしく思い返して終いである。


 各メディアでいわゆる「名店」として紹介されている店では、春木屋と麺屋武蔵で食べたことがある。どちらも連れが一緒で、ひとりだったらまず入らなかっただろう。テレビなどで有名店が紹介されると、長い行列ができているが、私には食べもの屋で並ぶ人間の気が知れないので、それだけでげんなりする。さらに、いち食べものとしてのラーメンにはさしたる関心はないが、こうした有名店をめぐって形成されているラーメン文化についてはひどく嫌悪感がある。すべてが貧乏くさいのだ。山本益博だったか、ラーメンとは前菜、スープ、メイン・ディッシュ、主食、サラダが一品に融合した見事な発明だ、といった意味のことを言っていたが、いかにもつましい発明で、フランス料理のフルコースだってゲロでだせばみんな一緒になってるわ、と合っているのだか合っていないのだかよくわからない啖呵が切りたくなる。黙々と食べ、そそくさと出ていかされるのも、なにか食欲を処理されている感じで、壁に穴がひとつだけ開いている性風俗を連想させる。テレビで、本気で語っているのだか本気で聞いているのだか見当もつかないが、有名店の店長だかが、ラーメン道を語っているのにいたっては噴飯もので、そんな能書きを垂れるくらいならなにでダシをとっているのかちゃんと後輩に教えろよ、それを聞いたくらいでは真似できないのがラーメン道ってもんだろう、と先ほどにくらべればより適切に思われる啖呵を切りたくなるのだ。

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