§26.これ以上は先走るべきではない。伝統によってお下がりのように伝えられてきた「連合の法則」の虚構性については後に示すことになろう。ここでの我々の対象は、ついでではあるが、判断における観念のシンボル的な使用は、精神の初期のものではないにしても、心的発達の自然な帰結だということである。知性の最初期から働いているのはこの種のものであり、イメージではない。イメージは決して魂に保持されないし、それは可能でもない。そのなかにある諸要素のつながりはすべて置き去りにされる。もし望むなら、それを我々の想像力の無能力といってもいいし、知性の本質である精神の観念化する働きといってもいいが、どの段階においても、なんらかの毀損なしに、個物であるために必要な細部の除去なしに事実が保持されることは不可能だということは変わらない。我々の成長の早い段階にまで、あるいは生命というものの初期の段階に下りていく程、より典型的で個的でない、細かな区別がなくより曖昧で普遍的、広範囲でシンボル的なものが経験の貯蔵庫となっている。意味がまず事実以外のものとして認められるという意味でシンボル的なのではない。分析が関係のある細部と関係のない細部とを区別し、より単純な要素を見いだし、知覚によるものよりも広範囲にわたる総合を行なうという意味での普遍でもない。存在を抜きにして意味をとり、個物を個物として扱わないという意味での、常に所与のものを超越し、どこでであろうと一度経験したものはいつどこででも真であり確実で、最初期の知性も最後期の知性も生の領域では端から端までまったく同一のものであるという意味で普遍的、シンボル的なのである。
2014年4月23日水曜日
ブラッドリー『論理学』26
第一巻判断第一章判断の一般的性質から。
§26.これ以上は先走るべきではない。伝統によってお下がりのように伝えられてきた「連合の法則」の虚構性については後に示すことになろう。ここでの我々の対象は、ついでではあるが、判断における観念のシンボル的な使用は、精神の初期のものではないにしても、心的発達の自然な帰結だということである。知性の最初期から働いているのはこの種のものであり、イメージではない。イメージは決して魂に保持されないし、それは可能でもない。そのなかにある諸要素のつながりはすべて置き去りにされる。もし望むなら、それを我々の想像力の無能力といってもいいし、知性の本質である精神の観念化する働きといってもいいが、どの段階においても、なんらかの毀損なしに、個物であるために必要な細部の除去なしに事実が保持されることは不可能だということは変わらない。我々の成長の早い段階にまで、あるいは生命というものの初期の段階に下りていく程、より典型的で個的でない、細かな区別がなくより曖昧で普遍的、広範囲でシンボル的なものが経験の貯蔵庫となっている。意味がまず事実以外のものとして認められるという意味でシンボル的なのではない。分析が関係のある細部と関係のない細部とを区別し、より単純な要素を見いだし、知覚によるものよりも広範囲にわたる総合を行なうという意味での普遍でもない。存在を抜きにして意味をとり、個物を個物として扱わないという意味での、常に所与のものを超越し、どこでであろうと一度経験したものはいつどこででも真であり確実で、最初期の知性も最後期の知性も生の領域では端から端までまったく同一のものであるという意味で普遍的、シンボル的なのである。
§26.これ以上は先走るべきではない。伝統によってお下がりのように伝えられてきた「連合の法則」の虚構性については後に示すことになろう。ここでの我々の対象は、ついでではあるが、判断における観念のシンボル的な使用は、精神の初期のものではないにしても、心的発達の自然な帰結だということである。知性の最初期から働いているのはこの種のものであり、イメージではない。イメージは決して魂に保持されないし、それは可能でもない。そのなかにある諸要素のつながりはすべて置き去りにされる。もし望むなら、それを我々の想像力の無能力といってもいいし、知性の本質である精神の観念化する働きといってもいいが、どの段階においても、なんらかの毀損なしに、個物であるために必要な細部の除去なしに事実が保持されることは不可能だということは変わらない。我々の成長の早い段階にまで、あるいは生命というものの初期の段階に下りていく程、より典型的で個的でない、細かな区別がなくより曖昧で普遍的、広範囲でシンボル的なものが経験の貯蔵庫となっている。意味がまず事実以外のものとして認められるという意味でシンボル的なのではない。分析が関係のある細部と関係のない細部とを区別し、より単純な要素を見いだし、知覚によるものよりも広範囲にわたる総合を行なうという意味での普遍でもない。存在を抜きにして意味をとり、個物を個物として扱わないという意味での、常に所与のものを超越し、どこでであろうと一度経験したものはいつどこででも真であり確実で、最初期の知性も最後期の知性も生の領域では端から端までまったく同一のものであるという意味で普遍的、シンボル的なのである。
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