ポーリン・ケイルは長年雑誌『ニューヨーカー』の映画欄を担当していた人物として有名だが、イーストウド・ファンには、『目撃』(『ブラッド・ワーク』だったろうか、いつもこの辺の2,3本がごちゃごちゃになってしまうのだが)で殺される女性映画評論家がポーリン・ケイルをモデルにしていることで有名なのかもしれないが、なぜそんないたずらをしたかは、ケイルが『ダーティ・ハリー』から一貫してイーストウッドを貶し続けたからだが(確か『許されざる者』は渋々認めたのだったか)、この本でも『ダーティハリー4』と『タイトロープ』(『タイトロープ』の方の監督はリチャード・タッグルだが)の2篇が取り上げられているが、わたくしにはどちらも面白い映画だったが、ケイルは『ダーティハリー4』については「イーストウッドの映画作りを初歩的と呼ぶのは、婉曲表現に過ぎるだろうか。」と皮肉たっぷりだし、『タイトロープ』では「映画はだらだらとつづいていく。イーストウッドの退屈さがそこから放射されているようだ。」とあくまでも否定的で、とはいえこの本には1983年から85年までの90本弱の映画が論じられているのだが、文句なしに称讃されているのはウディ・アレンの『カメレオンマン』『カイロの紫のバラ』とルキノ・ヴィスコンティの『山猫』(アメリカでは完全版が83年に公開された)くらいのもので、肯定的なものすべてをあわせても一割になるかならぬかで、それはひとつには雑誌という媒体上、ある程度評判になっている作品を取り上げねばならず、評判作につまらぬ作品が多いことはアメリカでも日本でも変わらないこともあるだろうし、またどうやら黄金期のハリウッドを規範としているらしいケイルは、ヨーロッパの「実験的な」映画に感心するたちでもないらしく、珍しくゴダールの『カルメンという名の女』を取り上げていると思ったら当然のように酷評していて、しかも黄金期のハリウッドというのは映像よりはずっと強く洗練された脚本のことを意味しているようで、つまり、それほどわたくしには関心をもてない人なのだが、『トワイライト・ゾーン』評のなかで、テレビ・シリーズの脚本家でもあったりチャート・マシスンが
と述べていたと伝えているところは、最後に「小さな」どんでんがえしかあ、と感心した。『ミステリー・ゾーン』の理想的な脚本は、最初の数秒で視聴者をぶちのめすようなすごいアイデアからはじまる。つぎにそのアイデアを展開したあとで、最後に小さなどんでんがえしをつける。それが構成の基本だった
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