菊地成孔に触れたのは実はラジオがはじめだったのだが、それほど熱心に聞いていたわけではなく、そもそもネット・ラジオも含めてポッドキャストを中心に聴いているわたくしには生のラジオを聞くことなど滅多にないのだが、よりによって音楽が禁じられているポッドキャストで音楽家のラジオを聞くというのも盲目で象をなでるような倒錯的な行為で、しかも更新頻度が少ないので、困ったものだと思うまでもなくたまの更新を聞くだけで、映画との関わりなどまったく知らなかったのだが、ゴダールとジガ・ヴェルトフ集団のDVDのブックレットに執筆しているのを読んで、そうなのかとそのときはまだその程度だったのだが、最近映画を集中的に見ることがあって、そんなときにはかえって映画についての本は読まないようにしていたのだが、一段落つくと、もともと嫌いではない映画関係の本が無性に読みたくなって、アマゾンでたまたま行き着いて買ったのだが、面白いのなんの、しかし、山下洋輔といい坂田明といい、なんで日本のジャズマンは文章がこんなにうまくて面白いのか、現代音楽では武満徹や高橋悠治の文章があるが、うまくはあっても面白くはないと思えるので、不思議なのだが、官能に訴えかけることが多いのも、おそらくは村上龍と双璧をなすぐらいで、ただ玉に瑕というよりは猫に小判なのは、わたくし自身が映画音楽にほとんど興味がないというか、映像の邪魔をしていなければいいと思っているくらいの程度で、それでも、子供の頃レコードを買い始めたのは映画音楽からで、『ジョーズ』だとか『荒野の七人』だとか、テーマ曲だけを集めた十枚くらいのセットもよく聞いた記憶があるのだが、青年以降からは音楽にほとんど印象がなく、記憶に残っているものといっては『時計仕掛けのオレンジ』のベートーヴェン、『地獄の黙示録』のワグナー、『ツィゴイネルワイゼン』のサラサーテなどを除けば、バーナード・ハーマン、ニーノ・ロータやエンニオ・モリコーネ、そういえばジョン・ゾーンがモリコーネの音楽をフィーチャーしたアルバムがあったはずだがどこにやっただろう、ぐらいなもので、どんなに秀逸な音楽でもゴダールの映画のものはおぼえられないという指摘などは的確なのだろうが実感できないのが残念で、この本を読んで早速音楽にも意識的になろうと思ったのだが、あいにくみたのがシュワンクマイエルの短編で、音楽は鳴り続いているものの、特に印象に残るものではなく、そういえば最近連続して聞いたコルトーのピアノは、よく言えばなめらかで詩的なのだが、もっと粒立ってゴリゴリした感じが好みのわたくしにはいまひとつだな、と思えたのだが、この本でもうひとつわたくしにはよくわからなかったのはファッションのことで、『82/1』でマストロヤンニがかぶっていた帽子を探して東京中を探しまわったというのは実に感動的なのだが、異常に物持ちがよく、ついでに家庭の事情もあって遠出もほとんどしないわたくしは十年以上も前の服をいまだに着ていて、とはいえファッションのことが嫌いではないので歯ぎしりするだけなのだが、それ以上に歯ぎしりしてしまうのは実家の両隣が映画館だったという家庭環境で、どうしようもないといわれればごもっともなのだが、トリュフォーや山田宏一と匹敵するような環境じゃないかと無意識のうちに歯がみしてしまうのも確かで、ほとんど同世代で銚子生まれだと聞くと、父方の祖父の家が千葉にあったわたくしは子供のころ何回か銚子にいったこともあり、あるいは街のどこかですれ違っていたかもしれない。
2015年3月16日月曜日
菊地成孔『ユングのサウンドトラック』
菊地成孔に触れたのは実はラジオがはじめだったのだが、それほど熱心に聞いていたわけではなく、そもそもネット・ラジオも含めてポッドキャストを中心に聴いているわたくしには生のラジオを聞くことなど滅多にないのだが、よりによって音楽が禁じられているポッドキャストで音楽家のラジオを聞くというのも盲目で象をなでるような倒錯的な行為で、しかも更新頻度が少ないので、困ったものだと思うまでもなくたまの更新を聞くだけで、映画との関わりなどまったく知らなかったのだが、ゴダールとジガ・ヴェルトフ集団のDVDのブックレットに執筆しているのを読んで、そうなのかとそのときはまだその程度だったのだが、最近映画を集中的に見ることがあって、そんなときにはかえって映画についての本は読まないようにしていたのだが、一段落つくと、もともと嫌いではない映画関係の本が無性に読みたくなって、アマゾンでたまたま行き着いて買ったのだが、面白いのなんの、しかし、山下洋輔といい坂田明といい、なんで日本のジャズマンは文章がこんなにうまくて面白いのか、現代音楽では武満徹や高橋悠治の文章があるが、うまくはあっても面白くはないと思えるので、不思議なのだが、官能に訴えかけることが多いのも、おそらくは村上龍と双璧をなすぐらいで、ただ玉に瑕というよりは猫に小判なのは、わたくし自身が映画音楽にほとんど興味がないというか、映像の邪魔をしていなければいいと思っているくらいの程度で、それでも、子供の頃レコードを買い始めたのは映画音楽からで、『ジョーズ』だとか『荒野の七人』だとか、テーマ曲だけを集めた十枚くらいのセットもよく聞いた記憶があるのだが、青年以降からは音楽にほとんど印象がなく、記憶に残っているものといっては『時計仕掛けのオレンジ』のベートーヴェン、『地獄の黙示録』のワグナー、『ツィゴイネルワイゼン』のサラサーテなどを除けば、バーナード・ハーマン、ニーノ・ロータやエンニオ・モリコーネ、そういえばジョン・ゾーンがモリコーネの音楽をフィーチャーしたアルバムがあったはずだがどこにやっただろう、ぐらいなもので、どんなに秀逸な音楽でもゴダールの映画のものはおぼえられないという指摘などは的確なのだろうが実感できないのが残念で、この本を読んで早速音楽にも意識的になろうと思ったのだが、あいにくみたのがシュワンクマイエルの短編で、音楽は鳴り続いているものの、特に印象に残るものではなく、そういえば最近連続して聞いたコルトーのピアノは、よく言えばなめらかで詩的なのだが、もっと粒立ってゴリゴリした感じが好みのわたくしにはいまひとつだな、と思えたのだが、この本でもうひとつわたくしにはよくわからなかったのはファッションのことで、『82/1』でマストロヤンニがかぶっていた帽子を探して東京中を探しまわったというのは実に感動的なのだが、異常に物持ちがよく、ついでに家庭の事情もあって遠出もほとんどしないわたくしは十年以上も前の服をいまだに着ていて、とはいえファッションのことが嫌いではないので歯ぎしりするだけなのだが、それ以上に歯ぎしりしてしまうのは実家の両隣が映画館だったという家庭環境で、どうしようもないといわれればごもっともなのだが、トリュフォーや山田宏一と匹敵するような環境じゃないかと無意識のうちに歯がみしてしまうのも確かで、ほとんど同世代で銚子生まれだと聞くと、父方の祖父の家が千葉にあったわたくしは子供のころ何回か銚子にいったこともあり、あるいは街のどこかですれ違っていたかもしれない。
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