2015年3月30日月曜日

フレッド・アステアとジンジャー・ロジャース


フレッド・アステアの映画といえば、なによりジンジャー・ロジャースとのコンビが一番好きなのだが、不思議なことにジンジャー・ロジャースの顔が、思いだそうとすると、いつもぼやけて曖昧な靄のなかに包まれてしまうのだった。

ところが、ジェーン・フューアーの本を読んでいて、その謎がある部分解決されたように感じた。というのも、彼女によると、アステア=ロジャースの映画は、アステアとダンスとの同一化を結晶化するように働いているからだ。

この同一化には二つのしるしがあり、ひとつは、アステアの身体が意識によるコントロールを離れて、意志によることなく踊りはじめることにある。『トップ・ハット』にあるように、気がつくとアステアは踊っている。

この無意識のダンスが、踊りと生きることを同一化するとすれば、第二にあるのは、アステアにとって、ダンスと救済とが分かちがたく絡みあっていることだ。作詞家こそ異なれ、天、つまりheavenの要素がアステアのダンス映画には突出している。Cheek to Cheekでは冒頭から、ダンスと天上への旅が同じであることが歌われるし、アステアが天使的な役割をすることも多い。

こうした指摘をされると、ダンスとともに生きるのではなく、ダンスこそが生きることであり、しかも天使的存在が相手ともなれば、ジンジャーといえども、その存在感を顔にまで充実させることができなかったに違いない。

2015年3月26日木曜日

日夏耿之介監修『奢灞都』4号

大正14年9月号。
1.ルミ・ド・グウルモン「秋詞」
堀口九萬一による漢詩になぞらえた訳。
2.吉江喬松「碧緑の室」
部屋の鏡にアフロディテのように浮かび上がる女。
3.龍膽寺旻「仙人掌」
倦怠を歌った詩。
4.J・V・L・「四旬節が関る頃の話」
第一話 日のなかの黄昏。これもまたある種の倦怠の話で、昼のなかに黄昏を見る男との対話。
5.岩佐東一郎「パステル画」
四つの短い詩。
6.日夏耿之介「呉牛月に喘ぐ」
白鳥某に対する反論。
7.木本秀生「夜の舗道」
夜、友人と歩いている男。軽い落ちがある。
8.矢野目源一「玄義道士の言葉」
ジョセフ・ペラダンの言葉。
9.石上好古「几辺聚珍」
最近の出版物の紹介。
10.燕石猷「遠き唄」
詩。
11.龍膽寺旻「TURBA PHILOSOPHORUM」
錬金術の書物のこと。
12.阿古沼充郎「密語」
殿様の奥方の密会と待ち望んだ死。
13.ホフマン「黄金宝壺」
石川道雄訳。前号の続き。
14.フランシス・ジャム「ルウルド霊験由来」
堀口大学訳。前号の続き。
15.日夏耿之介「瞑林?{忄に夢]語」
真剣さと遊戯性は相反しないこと。
16.吉例編輯後記

2015年3月22日日曜日

日夏耿之介監修『奢灞都3号』

大正十三年六月号。
1.吉江喬松「白き殿堂」
3ページの宗教的小品。
2.フランシス・ジャム「ルウルド霊験由来」
堀口大学訳。前号の続き。
3.茶煙亭「暮春漫録」
海外文学の紹介。
4.J・V・L・「RONDEL」
「薔薇を悼む歌」という副題をもつ詩。
5.龍膽寺旻「小豆洗ひ」
妖怪の小豆洗いの由来談のようなもの。
6.石上好古「机辺聚珍」
日本における西欧文学の紹介が中心。
7.阿古沼充郎「黒帆」
エーゲ海にまつわる詩。
8.岩佐東一郎「宝石函」
小さな宝石箱に入った操り人形にまつわる短編。
9.木本秀生「埋葬」
墓掘り人と話す男が、埋葬されるのが自分だと悟る。
10.稲田稔「梨園贅語」
築地小劇場が上演したチェーホフの「桜の園」についての評。おおむね好意的。
11.矢野目源一「尾上の聖母像」
詩。
12.ホフマン「黄金宝壺」
前号の続き。
13.萱雨亭「花時計」
俳句五句。
「永き日や林寧(リンネ)が苑(には)の花時計」
「卯の花や逢魔が時の俄雨」
14.日夏耿之介「樹下石上」
誕生日を迎えての感懐。
15.吉例編輯後記

2015年3月21日土曜日

アナイス・ニン『小鳥たち』


フランスでは、作家がポルノグラフィーをかくことが、少なくとも二十世紀前半くらいまでは伝統のようなものになっていた。ジャン・ポーランに『O情の物語』があり、バタイユには『マダム・エドアルダ』がある。アナイス・ニンのエロティカもそうしたものかと思っていたのだが、「まえがき」によると、仲間の貧しい芸術家たちを支援する為に書き始めたのだそうだ。「文学的売春館という異様な館のマダム」だったと本人はいっている。短編集で、それぞれ簡単に触れると、

小鳥たち:女子校の前に引っ越す露出症の男。

砂丘の女:夜眠れない男がさまよい歩く。砂丘で女に出会い、二人で歩きながら性交を続ける。女はロシアの過激派がパリで絞首刑にされたとき、見知らぬ男に後ろから犯されたことを語る。

リナ:妙に厳格なところのあるリナだったが、女友達である私と私の彼の家に行き、お香の催淫作用もあって奔放に振る舞う。

二人姉妹:姉が妹の彼と寝てしまう。妹も遊びのつもりで付き合っているのだから、と軽い気でいたのだが、実は妹は本気で彼を愛しており、二人が結婚することになると生気が失われ、老女のようになってしまう。姉の方もそれ以来快感を得ることができなくなる。

シロッコ:デーカにいるときに、二人の女性を知るようになったが、他の観光客とは異なり、挨拶を交わすこともなかった。シロッコが吹くとき、風が止むまでいたら、と二人の家に上げられる。そこで一方の女性のこれまでの(性)生活が語られる。

マハ:画家がゴヤのマハに似た女性と結婚する。しかし、女は厳格なカトリックだった。やがて画家は、放恣な裸体をさらす自分が描く彼女で欲望を満たすようになる。

モデル:箱入り娘がモデルの仕事に就き、様々な画家のところをまわる。

女王:画家が語る、娼婦の精髄のような女の話。

ヒルだとランゴ:ヒルだがランゴという男性に出会い、新しいエロティックな感覚を知るようになる。

チャンチキート:チャンチキートはブラジルにいるという小さな豚のような動物で、やたらに鼻が長く、女性の両脚のあいだに鼻を突っ込む。恋人の画家に天上の漆喰の乱雑な形をたどって絵を描いてもらう。

サフラン:名家に嫁に行ったが、夫は性交を最後まで終えることができない。ところが、ある日サフランの香りが催淫効果を及ぼし、性交に成功する。

マンドラ:夫のいる女性とのレスビアン関係。

家出娘:家出娘が男二人が住むアパートに転がり込んでくる。一種の三角関係。

確かに、バタイユの形而上学的ポルノとは異なり、ちゃんと興奮できるようになっている。

2015年3月20日金曜日

ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト3』


『エクソシスト』の『ビギニング』と『ドミニオン』を続けてみたら、第一作のメリン神父の若いころのエピソードが描かれていて、メリン神父役はステラン・ステラスガルドで共通していて、しかも話がほとんど一緒なので妙なことだな、と思っていたら、案の定、ポール・シュレーダーが監督した『ドミニオン』があまりに地味すぎるので、監督がレニー・ハーリンになり撮り直したのが『ビギニング』だという、ハリウッドではよく聞く話で、しかもウィキによれば、ポール・シュレーダーも、予定されていたジョン・フランケンハイマーが死亡したために起用されたのだという(『ドミニオン』も『ビギニング』も撮影はヴィットリオ・ストラーロという豪華さ)。フランケンハイマーが撮っていたら、『フレンチ・コネクション』再びということだったのだろう。

確かに『ビギニング』の方がアクションは派手になっているが、いくらでもアクション映画があるなかで、『エクソシスト』のような日常とはちょっとずれたところに妙なアクションを練り込むという工夫がされていないために、さしたることはなかった。

そもそもジョン・ブアマンの第2作目にはじまったことだが、人類学的な要素を取り入れ、悪魔の起源をアフリカに求めるのが差別的とまではいわないが、陳腐である。もちろん『幼年期の終り』くらいまでいけばセンス・オブ・ワンダーがあるわけだが。

『エクソシスト3』は第一作で刑事で登場したジョージ・C・スコットが主人公で、第一作からは十五年がたっている。ワシントンのリーガンが住んでいた家の周辺で、猟奇的な連続殺人が起きる。捜査を進めているうちに、ある病院にたどり着き、その隔離病棟に十五年前に窓から飛びだして死んだのを自分の目で見たダミアン神父が隔離されているのを知ることになる。

『エクソシスト』は屋内、屋外ともに階段が魅力的な映画だったが、この映画では家の脇の屋外の階段が冒頭から何度もでてくるのが嬉しいところ。それに、前に前にと前進していくカメラが印象的。

2015年3月19日木曜日

阿部和重『クエーサーと13番目の柱』


ほとんど傭兵部隊のように特殊技能に優れ、組織化されたパパラッチの集団が、さる富裕な人物に雇われ、Qと呼ばれるアイドルの行動を監視し、可能なら盗撮する。Qはキングに対するクイーンであるとともに、ぎりぎり観測できるほどの遠くを大きな光を放ちながら流れ去っていく星、つまりクエーサーをも意味している。

それゆえ、Qというのは実在する女性よりは大きな象徴的意味をもつ存在であり(冒頭に登場するダイアナ妃のように)、対象となる女性が変わることもある。実際、作中で対象は変わり、ボーカロイドとヒューマノイド・ロボットと三人でユニットを組むミカが標的になる。

ところが、この傭兵集団に加入した新入りは、思考が現実化するという陳腐でもあり、文字通りに信じると恐ろしくもある信念を持った人物であり、ミカでダイアナ妃の自動車事故を再現しようとする。

いかがわしい教えを取り入れるのがあいかわらずうまい。最後の場面はまるで、『ジョジョ』第三部の最終対決のときのようなのだが、気のせいだろうか。

2015年3月18日水曜日

日夏耿之介監修『奢灞都2号』

大正十四年四月号。180ページ。
1.J・V・L・「曇れる古鏡の街」
詩。
2.矢野目源一「御公現祭式」
中世紀フランスの宗教劇。日本における神楽舞のようなものだといっている。
3.岩佐東一郎「夢を売る寺院」
前号の続き。一首の幻想譚。
4.フランシス・ジャム「ルウルド霊験由来」
堀口大学訳。途中まで。
5.山宮允「ブレイクとその時代」
題名通りの評論。
6.茶煙亭「紫煙閑話」
1ページの煙草に関する雑学。自分がパイプを吸うだけに関心を引くところも多い。
「夢を見る為に眠る必要はない。眠る為に夢を見るべきである。その手段として有効なのは阿片でもない、ハシッシュでもない、唯煙草あるのみ。」
「忠実な犬はその主人を忘れない。真の友人は一人である。まことの喫煙家は一つのパイプしか持たず、しかも日に三度以上はつめかへぬ。」
最後の箴言などは、日に三度は詰め替えないが、安物のパイプをとっかえひっかえ使っている自分には耳が痛い。
7.木本秀生「曼珠沙華」
副題「夢の喫煙者」曼珠沙華に女の頸を見る幻想。
8.ホフマン「黄金宝壺」
石川道雄訳。前号からの続き。
9.龍膽寺旻「冬眠賦」
詩。
10.日夏耿之介「随筆緊箍咒」
亡き父親のこと。
11.稲田稔「例月演劇管見」
武者小路実篤の「父と娘」を同士座が上演したのを評す。絶賛でも酷評でもなく、見るべきところもあったという程度。
12.吉例編輯後記

2015年3月17日火曜日

近松門左衛門『冥途の飛脚』


飛脚宿の養子の忠兵衛は、新町の抱え女郎梅川に惚れ込んで、水揚げしようとする田舎者のライバルがいるものだから、つい意地になって商売上の金に手をつけてしまう。それがたまたま友人の金だったものだから、義理の母親の責め言葉にもなんとか機転を利かせて救ってくれた。

ところがその友人が、その話を遊女たちの目の前で披露に及び、たまたまそれを聞きつけた忠兵衛は生まれつき頭に血の上りやすい性格、お屋敷から預かった三百両から五十両を叩き返し、残りの金で祝儀共々梅川の身請けの金にしてしまった。

もはや逃げるところまで逃げてあとは死ぬしかないと、大和は実父のところに帰るが、すでに追っ手は迫っており、お縄にかかる。

近松によくあるように、この作品も実際の事件をモデルにしたものだというが、梅川は刑死した忠兵衛に義理立てしてあとを追うこともせず、また店に出たそうだ。

実際、忠兵衛にはこれといって魅力がなく、五十両を叩き返すときには、こんなことをしても困るのはお前なのだから、やめておけ、と諫める友人の方がよほど義侠心に富んでいる。

それに、忠兵衛と梅川の深い間柄を象徴するような印象的なエピソードがないので二人の未来が切々と迫ってはこない。

2015年3月16日月曜日

ミネット・ウォルターズ『破壊者』


『女彫刻家』以来、ミネット・ウォルターズは現存するミステリー作家のなかでもっとも好きな作家のひとりである。
期待に違わず面白かったのだが、その面白さは通常のミステリーのものとは随分と違う。
『破壊者』と大仰な題名がついているが、誇大妄想狂と紙一重の、あるいは天才的な殺人者が出てくるわけでもなければ、鮮烈などんでん返しがあるわけではない。
ロンドンの西南、ドーセットのチャップマンズ入江で女の死体が発見される。
そこから連続殺人劇の幕が開くわけでもないし、別に種明かしになることでもないが、最初からの容疑者が犯人である(しかも、容疑者自体二人しかいない)。
最初にあがる二人の容疑者というのは、実際の殺人事件で当然容疑者にあがりそうな人物たちで、ミステリーなのだからそんなはずはない、といわばどちらの方向に話が流れていくのかわからない宙づりのまま結末にいたり、最後にそれらしい理屈はつくのだが、さほど説得力があるわけではなく、それよりは互いに意識し会っていた男女が無事結びつく方がより比重が大きく感じられて、宙づりの着地点としてはむしろそちらの方が正しいと思われるところが味噌である。

実存的人物論ーー菊地成孔のマイルス講義


私は一番よく聴いた音楽のジャンルはジャズであるにもかかわらず、マイルス・ディヴィスにはそれほど関心をもたなかった。もっとも、モンクを除けば、マイルスばかりではなくいわゆるビ・バップ、ハード・バップといった主流を飛び越えて、ついでにオーネット・コールマンセシル・テイラーといったフリー・ジャズのおおもとも駆け足で通り過ぎ、スティーブ・レイシーだとか、ビル・ラズウェルだとか、ミシャ・メンゲルベルグといったポスト・フリーと呼ばれる人たちを聞きまくっていたので、大好きな平岡正明マイルスについて一冊を書き上げたときにも、読むには読んだが、やはりどうしても聞かねばという気にはならなかった。
ところがこの本は無類に面白いジャズ論であるのと同時に、是が非でもマイルスを聞かなければと思わせる本でもある(実際CDを買ったり、YouTubeを検索して聞きまくった)。マイルスについてさほど関心がないといっても、あの独特の音の調子は耳に刻みついているので、マイルス論で多少奇抜なことがいわれていたとしても、ようはあの音がそうなる訳ね、とわかったような気になってしまっていたのだ。
しかしながら、このマッシブな本は、あまりに新しい視点を提示しているために、類推によってわかったような気分になることを許さないのだ。重層的な和音を展開するモード、それはまたジャズに限定されない音楽のモードでもあれば、ファッションのモードであり、それがマイルスの生き方と骨がらみになっていたアンビヴァレンツとミスティフィケーションと結びついているのを分析していく手際は、サルトルのジュネ論やフローベル論を思わせるところがある。

ポーリン・ケイル『映画辛口案内』と『トワイライト・ゾーン』


ポーリン・ケイルは長年雑誌『ニューヨーカー』の映画欄を担当していた人物として有名だが、イーストウド・ファンには、『目撃』(『ブラッド・ワーク』だったろうか、いつもこの辺の2,3本がごちゃごちゃになってしまうのだが)で殺される女性映画評論家がポーリン・ケイルをモデルにしていることで有名なのかもしれないが、なぜそんないたずらをしたかは、ケイルが『ダーティ・ハリー』から一貫してイーストウッドを貶し続けたからだが(確か『許されざる者』は渋々認めたのだったか)、この本でも『ダーティハリー4』と『タイトロープ』(『タイトロープ』の方の監督はリチャード・タッグルだが)の2篇が取り上げられているが、わたくしにはどちらも面白い映画だったが、ケイルは『ダーティハリー4』については「イーストウッドの映画作りを初歩的と呼ぶのは、婉曲表現に過ぎるだろうか。」と皮肉たっぷりだし、『タイトロープ』では「映画はだらだらとつづいていく。イーストウッドの退屈さがそこから放射されているようだ。」とあくまでも否定的で、とはいえこの本には1983年から85年までの90本弱の映画が論じられているのだが、文句なしに称讃されているのはウディ・アレンの『カメレオンマン』『カイロの紫のバラ』とルキノ・ヴィスコンティの『山猫』(アメリカでは完全版が83年に公開された)くらいのもので、肯定的なものすべてをあわせても一割になるかならぬかで、それはひとつには雑誌という媒体上、ある程度評判になっている作品を取り上げねばならず、評判作につまらぬ作品が多いことはアメリカでも日本でも変わらないこともあるだろうし、またどうやら黄金期のハリウッドを規範としているらしいケイルは、ヨーロッパの「実験的な」映画に感心するたちでもないらしく、珍しくゴダールの『カルメンという名の女』を取り上げていると思ったら当然のように酷評していて、しかも黄金期のハリウッドというのは映像よりはずっと強く洗練された脚本のことを意味しているようで、つまり、それほどわたくしには関心をもてない人なのだが、『トワイライト・ゾーン』評のなかで、テレビ・シリーズの脚本家でもあったりチャート・マシスンが

『ミステリー・ゾーン』の理想的な脚本は、最初の数秒で視聴者をぶちのめすようなすごいアイデアからはじまる。つぎにそのアイデアを展開したあとで、最後に小さなどんでんがえしをつける。それが構成の基本だった

 と述べていたと伝えているところは、最後に「小さな」どんでんがえしかあ、と感心した。

菊地成孔セレクション


本来はジャズのディスク・ガイドを頼まれて、できたのが本書で、その結果わたくしのようなものには余計に興味深いものとなっていて、マイルス・ディヴィス論などを読むと、単にジャズも先頭を走り続けてきた人物というだけでなく、同時代のポップスやファッションにも目が行き届いていて実に新鮮なのだが(まだ著中までしか読んでいないが)、この本は同じことをジャズで行おうとした壮大な企ての一環に思えて、もっとも各項目のディスクの選択はその道の専門家に任されていて、菊地成孔はその専門家と対談し、コメントを加えているに過ぎないのだが、使えるものは誰でも使おうというのが菊地成孔のフットワークの軽いところなのだが、全体は六つの部分に分かれていて、1.ビター・ブラック・ミュージック(人種的、社会的な姿勢が強く前面に押しだされていて、アーシーな地域性も高い)、2.スウィート・ブラック・ミュージック(ビターよりも主張が強くなく、その分豪奢な官能性にあふれてもいる)、3,ポップス、4,クラシック現代音楽、5.ラテン、6.ジャズということになるのだが、副題にある「ロックとフォークのない20世紀」という表現を借りれば、わたくしは「ロックとフォークとブラック・ミュージックとポップスとラテンのない20世紀」を生きてきており、ロックはプログレニュー・ウェイブを少し、フォークはボブ・ディランを少し、ブラック・ミュージック、つまりジャズを除いたブルースなどは、アレサ・フランクリンオーティス・レディングを少し、ポップスはマドンナシンディ・ローパーを少し、ラテンはモラエスやレゲエを少しといったありさまなので、クラシック現代音楽ジャズの部分がわかる程度なので、真に啓蒙的なディスク・ガイドではあるのだが、実際にYou TuveなどでみてみるとCDを買うところまでいくかしらん、という程度にとどまっているのが痛し痒し。

菊地成孔『ユングのサウンドトラック』




菊地成孔に触れたのは実はラジオがはじめだったのだが、それほど熱心に聞いていたわけではなく、そもそもネット・ラジオも含めてポッドキャストを中心に聴いているわたくしには生のラジオを聞くことなど滅多にないのだが、よりによって音楽が禁じられているポッドキャストで音楽家のラジオを聞くというのも盲目で象をなでるような倒錯的な行為で、しかも更新頻度が少ないので、困ったものだと思うまでもなくたまの更新を聞くだけで、映画との関わりなどまったく知らなかったのだが、ゴダールとジガ・ヴェルトフ集団のDVDのブックレットに執筆しているのを読んで、そうなのかとそのときはまだその程度だったのだが、最近映画を集中的に見ることがあって、そんなときにはかえって映画についての本は読まないようにしていたのだが、一段落つくと、もともと嫌いではない映画関係の本が無性に読みたくなって、アマゾンでたまたま行き着いて買ったのだが、面白いのなんの、しかし、山下洋輔といい坂田明といい、なんで日本のジャズマンは文章がこんなにうまくて面白いのか、現代音楽では武満徹高橋悠治の文章があるが、うまくはあっても面白くはないと思えるので、不思議なのだが、官能に訴えかけることが多いのも、おそらくは村上龍と双璧をなすぐらいで、ただ玉に瑕というよりは猫に小判なのは、わたくし自身が映画音楽にほとんど興味がないというか、映像の邪魔をしていなければいいと思っているくらいの程度で、それでも、子供の頃レコードを買い始めたのは映画音楽からで、『ジョーズ』だとか『荒野の七人』だとか、テーマ曲だけを集めた十枚くらいのセットもよく聞いた記憶があるのだが、青年以降からは音楽にほとんど印象がなく、記憶に残っているものといっては『時計仕掛けのオレンジ』のベートーヴェン、『地獄の黙示録』のワグナー、『ツィゴイネルワイゼン』のサラサーテなどを除けば、バーナード・ハーマンニーノ・ロータエンニオ・モリコーネ、そういえばジョン・ゾーンモリコーネの音楽をフィーチャーしたアルバムがあったはずだがどこにやっただろう、ぐらいなもので、どんなに秀逸な音楽でもゴダールの映画のものはおぼえられないという指摘などは的確なのだろうが実感できないのが残念で、この本を読んで早速音楽にも意識的になろうと思ったのだが、あいにくみたのがシュワンクマイエルの短編で、音楽は鳴り続いているものの、特に印象に残るものではなく、そういえば最近連続して聞いたコルトーピアノは、よく言えばなめらかで詩的なのだが、もっと粒立ってゴリゴリした感じが好みのわたくしにはいまひとつだな、と思えたのだが、この本でもうひとつわたくしにはよくわからなかったのはファッションのことで、『82/1』でマストロヤンニがかぶっていた帽子を探して東京中を探しまわったというのは実に感動的なのだが、異常に物持ちがよく、ついでに家庭の事情もあって遠出もほとんどしないわたくしは十年以上も前の服をいまだに着ていて、とはいえファッションのことが嫌いではないので歯ぎしりするだけなのだが、それ以上に歯ぎしりしてしまうのは実家の両隣が映画館だったという家庭環境で、どうしようもないといわれればごもっともなのだが、トリュフォー山田宏一と匹敵するような環境じゃないかと無意識のうちに歯がみしてしまうのも確かで、ほとんど同世代で銚子生まれだと聞くと、父方の祖父の家が千葉にあったわたくしは子供のころ何回か銚子にいったこともあり、あるいは街のどこかですれ違っていたかもしれない。

日夏耿之介編輯『奢灞都』第1号の内容


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大正十四年二月発行。
1.矢野目源一「悪魔饗宴考」
悪魔の饗宴であるサバトの話。矢野目源一は艶笑話ばかりを集めた本を読んだことがあるが、悪魔学についても造詣があったようで。
2.マルセル・シュオブ「小児十字軍
3.龍膽寺旻「湯婆」
小説。湯婆は湯たんぽのこと。ちゃんと落ちのついたコントになっている。
4.堀河融「靄の濃い街」
小説。女との別れ。
5.L'abbe St.Adrian「忘却の伽藍
詩。
6.ダグラス・ハイド編「デアドラ姫膽」
燕石猷訳。小説。途中まで。
7.岩佐東一郎「夢を売る寺院」
小説。前編。
8.始皇帝Cacoethes Loquendi」
洋書紹介。
9.木本秀生「白夜狂想」
小説。ロシアを舞台にした恋の争い。
10.ホフマン「黄金宝壺」
石川道雄訳。冒頭部分のみ。
11.日夏耿之介「随筆緊箍咒(一)」
12.編輯後記。

日夏耿之介編輯『東邦藝術』第2号の内容

 大正十三年十二月発行。
 日夏耿之介編輯と明記されるようになる。
1.堀口大学「旅の荷物」
短い詩6編。
一篇あげる。
 
 待つ間逢ふ間
待つ間の長さ
逢ふ間の短かさ
時のお腹は蛇腹です

2.岩佐東一郎催眠歌」
詩2編。

3.L'abbe ST.Adrian「夜の版画」
同名の詩1編。

4.J・V・L・(最上淳之介)「青の憂愁」
同名の詩1編。

5.龍膽寺旻「Elixir Vitae」
同名の詩1編。

6.木本秀生「芸術的思弁」
前号の続き。

7.始皇帝(多分日夏耿之介)「Cacoethes Loquendi」
洋書の紹介。
8.石川道雄「ホフマン片影」
ホフマンについてのエッセイ。

9.OBTER DICTA
6人の執筆者によるコラム集。後の春山行夫を思わせるようなもの。
10.日夏耿之介「幼童必携瞳人閑語之序」
対話体による読書論、雑誌の方向性を宣言するものとなっている。

11.J.V.L.(最上淳之介)「Headin' South」
船上でのショートショート

12.木本秀生「DREAME-ATER」

13.城左門「異教の夜」
短編。死んだ女をめぐって。

14.正岡蓉「ある幻灯の一画面」
寄席を舞台にした戯曲。バタ臭さよりも下町趣味が勝っていて、今号では風変わりな一篇。
15.石川道雄「歳晩祭の夜」
ホフマンの翻訳。ほぼ全体の四分の一を占めていて、今号の白眉か。

16.編輯後記


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