ウィリアム・ジェイムズはブラッドリーと正反対の哲学感の持ち主だが、『論理学』を読んで次のように書いている。「私は限りない興奮と刺激を受けながらブラッドリーの『論理学』を読んでいます・・・・・・イギリス哲学においてエポック・メイキングなものであることは確かです。経験論者や汎合理主義者たちも考慮すべきです。それはあらゆる伝統的な境界線を粉々にしています。」(書簡、)ルドルフ・メッツ『イギリス哲学の百年』からの引用。)
§9.こうした事実の逆説的な影であり幽霊であるのが、我々が観念なしに判断なしというときの観念である。先に進む前に、叙述において我々は心的な事実は用いず、意味だけを使うことを簡単に示してみよう。しかしながら、この真実の完全な証明には本書全体を見てもらわなければならない。
(i)第一に、ある判断の賓辞として使うとき、観念は私の心的状態でないことは明らかである。「クジラは哺乳類である」というのは、私の哺乳類というイメージによって現実のクジラがあらわされているのではない。というのも、そのイメージは私に属し、私の歴史における出来事だからである。私がヨブでもない限り、実際のクジラに入ることなどあり得ない。その不条理は歴然であるから、この点にとどまる必要はあるまい。もし私が、海竜の観念をもっているか、と尋ねられたら、私ははいと答える。次に、それを信じているか、海竜は存在するかと尋ねられたら、私はその違いを理解する。問題は私の心にある事実ではないのである。それが私の頭のなか以外に存在するのかどうか誰も知ろうとは思わない。ましてやそれが実際に頭のなかに存在するかなどは。それがあるというなら、疑うことはできない。つまり、判断において観念が私の心的状態だというのはでたらめだと言えよう。
(ii)第二に、しかし、観念というのは、私の個人的な心的出来事ではないにしても、そのイメージに含まれる全内容だというのは可能ではないだろうか。我々は心的な事実、哺乳類という観念をもっている。最初に認めねばならないのは、私の世界に存在し住みついているものとしてそれを言いあらわすことはできないということである。別の可能性があるだろうか。観念は恐らくその存在とは切り離して、私の心的現象との関係から抽象されて用いられてはいるが、なにも差し引かれることなくその内容を保持しているかもしれない。私の頭のなかの「哺乳類」は単なる哺乳類ではなく、一般的な哺乳類以上の特殊性と異なった性格をまとっている。そしてそれらは、イメージとして多様なあらわれ方をするかもしれない。*このクジラのイメージが判断に用いられているのか、これが意味なのかと我々は尋ねることができる。しかし、答えは否定的なものに違いない。
我々は赤の、悪臭の、馬の、死の観念をもっている。我々は多かれ少なかれそれらをはっきりと思い起こし、ある種の赤、不快さ、馬のイメージ、死のなんらかのあらわれが我々の前に生じる。そして、薔薇は赤か、石炭ガスは悪臭か、あの白い動物は馬か、彼が死んだというのは本当か、などと尋ねられると、そうだ、と答え、我々の観念はすべて真実であり、現実に帰せられるとする。しかし、赤の観念はロブスターから、匂いはひまし油から、馬のイメージは黒馬から、死は萎れた花からきたのかもしれない。それらの観念は真実ではないし、我々はそれを使っているのでもない。我々が実際に使っているのは、我々の精神が一般的意味として固定した内容の一部分である。
賓辞は(様々な意味で様々な作家たちが語っているように)明確であることが望ましいが、実際にはそれが常に満足させられることはあり得ない。私はベリーには毒があると、どうしてかは知らないし、「毒がある」ということに私がこれが毒だと思ったのとは異なった特徴があるにもかかわらず、そう判断することはありうる。その悪行など知らないし、当てはまるようなイメージなどないにもかかわらず、私はABが悪人だと信じることがあり得る。私には存在するとはとても言えないような革や布だが、そうした革や布で本が綴じられていると私が確信するようなことがあるかもしれない。詳細は知らないか、あるいは忘れてしまっている。しかし、その一般的意味については絶対的に確信しており、そのように述べることがある。
非常に重要なこの明らかな相違について多くの場を割けないことを許してもらわなければならない。我々の判断の理論そのものがその助けとなり例証ともなってくれるだろう。しかし、なおいくつか細かな例をつけ加えよう。鉄が黄色であるというのを否定するとき、私は、それは金のような黄色ではないと言うのだろうか、あるいはトパーズのような黄色ではないと、それとも、どんな類の黄色でもないというのだろうか。「それは男性か女性か子供だ」と私が言うとき、「別の可能性もある。インデアンか少女かもしれない」と言われるのは道理にあったことだろうか。彼は病気なのか、と問うとき期待しているのは、「彼はコレラなんだ」という答えではないか。「彼が去ってしまったら私は駄目になってしまう」と言っているのに、「安心したまえ、馬車に乗って彼は君のもとを去るのだから」と言ってすむだろうか。
判断における観念は普遍的な意味である。それは移ろいゆく心像ではないし、ましてや心的出来事の全体でもあり得ない。
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