かくして、第三エロチカの公演によって状況劇場以外の劇団への門が開かれたわけだが、第三エロチカは状況劇場のようにわたしの鍾愛する劇団にはならなかった。というのも、『新宿八犬伝』第一部第二部は文句なしに面白かったが、それ以降の『ニッポン・ウォーズ』や『ラスト・フランケン
シュタイン』などはなにか歯車が噛み合わない感じで、結局その後を追いかけるのをやめてしまったからである。もっとも後で述べるように、深浦加奈子との縁がこれで切れたわけではなかった(第三エロチカでいえば、もう一人、香取早月が贔屓だった。狐のような顔をしたボーイッシュな女優で、迫力のある表情で言いたいことだけ言ってしまうと、舞台の脇で膝をかかえて座っているような役柄が多かったように思う。その姿には、なにか、衆人環視のなかでの寂寥感のようなものが漂っていた)。
この集中的に芝居に通った時期に心底熱狂した劇団は別にあった。一つは山川三太主宰の究境頂である。金閣寺の三層を究境頂と言うが、特に関係はないようだ。まったく知らなかったこの劇団を見にいったのは、チラシに山川三太と種村季弘との対談が載っていたからだった。本来、究境頂は状況劇場と同じくテント芝居だったが、わたしはテントでの公演は一度しか見ていない。とい
うのも、この劇団はまもなく解散してしまったからである。結局わたしが見たのは、テント、高円寺のスタジオでの二回にとどまる(究境頂のヒロイン鳳九が、他の二つの劇団の女優と集まって行なった三人芝居を加えると三回になるが)。テントで見たのは『空飛ぶ鍛冶屋』という芝居で、場所はよくおぼえていないが、なんでも駅から相当歩いたような気がする。周辺には何もないのっぱらのような場所に銀色のテントが立っていた。花園神社のような喧噪と隣り合わせの場所ではなかったから、朧気になった記憶で思い返してみると、夢のなかの出来事か、水木しげるの漫画にでも入り込んでいたかのような気分になる。芝居の内容もまた朧気だが、安部公房の『友達』のように、見知らぬ他人がずかずかと家庭のなかに入り込むところから始まったと思う。それがどういう具合にか、錬金術的な創世の神話に結びつくのだ。ヒロインの鳳九がまた魅力的で、女性にこんな形容もないものだが、貫禄のある偉丈夫さながらだった。イタリアの女優、ソフィア・ローレンやクラウディア・カルディナーレを思い起こして貰えばいいだろうか。創世の神話といっても、決して堅苦しい難解な芝居ではなく、芝居を見てこのときほど笑ったことはなかった。このことは実は大変なことで、それというのも、この公演、観客が十人ほどしかいなかったからだ(やはり辺鄙な場所が障害となっていたのだろう――都内であったのは確かなのだが)。役者と観客が互いを意識せざるを得ないこのような状況で笑いが絶えないというのは、満員の劇場をわきかえらせるのより、より容易なことだとは言えまい。二回の公演しか見られなかったことが思い出を美化しているかもしれないが、とにかく究境頂は状況劇場以後始めてのぼせ上がった劇団だったのである。
しかし、究境頂は、テント芝居であること、卑俗な現実が創世の神話と結びつく展開など、第三エロチカと同じく、多かれ少なかれ状況劇場からの流れにあった劇団だった。当時熱狂したもう一つの劇団こそ、状況劇場的な作劇を相対化する視点をわたしに与えてくれた。そして、これ以後、この劇団の与えてくれた方向にわたしの好みも移っていく。それが内田栄一が主宰する銀幕少年王である。内田栄一でもっともよく知られているのは、脚本家としての彼であろう。藤田敏八の『バージンブルース』『妹』『スローなブギにしてくれ』『海燕ジョーの奇跡』、若松孝二の『水のないプール』『スクラップストーリー ある愛の物語』、神代辰巳の『赤い帽子の女』、根岸吉太郎の『永遠の1/2』などが彼の脚本(及び共同脚本)である。もともとは「新日本文学」に入会し、小説家として出発したらしい。安部公房のもとにいたということをどこかで本人が書いていたのを読んだ記憶がある。わたしが読んだ小説は(題名は忘れてしまったが)、なんでも中年の男がナンパした少女と部屋のなかでごろごろしている、といった感じのものだった。藤田敏八の映画を思わせるもので、当時わたしが内田栄一についてもっていた印象は、軟派な硬派というものだった。とりわけ硬派の部分が突出しているのが劇団主宰者としての内田栄一だった。1967年の公演『ゴキブリの作り方』は花田清輝に激賞されたというが、その後コンスタントに演劇に関わっていたのかどうかわたしは知らない。
銀幕少年王の芝居がどのようなものであったか伝えるのは難しい。まず、状況劇場のように、かけがえのない役者の存在を前提に成立するような芝居ではなかった。役者は公演ごとに代わっていった。池袋の文芸座ル・ピリエでの公演では田口トモロヲが出演していて、さしたる必然性もなしに服を脱いで、腰蓑の間から性器が見え隠れしていたのをおぼえているが、それは当時彼がボー
カルをしていたパンクバンドばちかぶりを聞いていたから記憶に残っているに過ぎない。舞台装置も大げさなものはほとんどなかった。ある意味象徴的なことだと思うが、あれほど熱狂していたというのにわたしは一つも公演名が思い出せないのだ。基本的なパターンは決まっていて、短いスケッチ風の芝居と、さあなんと言ったらいいか、リズミックな音楽にのせてなされるごく単純な動作の持続が交互に繰り返されるのである。たとえばその場で駆け足をしながら、隊列をなして、その編成を変えていく、といった誰にでもできる動作で、ここにも役者の特異性をあてにしない姿勢が一貫している。後で触れることになるかと思うが、関西の劇団維新派の芝居に近いと言えるかもしれない。維新派の主催者である松本雄吉も経歴が長いから、あるいはどこかで擦れ違って影響を与えあったというようなことがあるかもしれないが、よくわからない。しかし、維新派は巨大な舞台装置を組み立てることが芝居の一環となっており、その点では両劇団は正反対である。内田栄一には『生理空間』という身体論であり、演劇論でもある著作があるが、まさしく彼の芝居は単純な動作の持続によって人間が無名の生理へと還元されていくのである。
あり得る誤解を避けるために言っておけば、銀幕少年王の芝居は、モダン・アートに特有なコンセプチュアルなものではなかった。後に、絶対演劇宣言と題してまさにコンセプチュアルな演劇ばかりを集めた催しがあったが、箱を右から左へ移すような単純な行為の繰り返し自体は両者に共通するが、こうした演劇にはまったく劇的興奮をおぼえなかった。内田栄一の芝居が人間がなにか訳のわからぬものに変貌するさまを見せてくれるのに対し(キューブリックの『フルメタル・ジャケット』の前半部分、新兵に対するしごきの場面で、汚い言葉に乗せて繰り返されるランニングが若者を何ものかに変貌させるように)、それらの演劇ではどこまでいっても概念によって動かされる人間は概念によって動かされる人間のままなのだ。
その他印象に残った劇団を思いつくままにあげてみよう。劇団鳥獣戯画は歌舞伎ミュージカルと称して『桜姫東文章』などをミュージカル仕立てにして公演していた。美空ひばりが主演する歌謡映画の雰囲気で、和製ミュージカルの変な臭みがなかった。歌舞伎にインスパイアーされた劇団としては花組芝居もあったが、わたしは鳥獣戯画の方が断然好きだった。坂手洋二の燐光群は政治
と性や変革と情念の、山崎哲の転位・21は日常から犯罪へと向かう回路を示してくれた。女性ばかりの劇団青い鳥がこの頃話題になっていて、数回見に行ったが、おしゃれではあったが劇的なるものはさほど感じなかった。どうも男性だけの劇団や女性だけの劇団には性的葛藤がない分、劇的緊張の水位が一段階低くなるように感じるのが常であった。
鴻上尚史の第三舞台は一度見に行って、野田秀樹の夢の遊眠社はテレビで一度だけ見て大嫌いになった。それ以来全く見ていないので、批判のしようもないが、例えて言うなら、ライブハウスにジャズを聴きに行ったら、クロスオーバーが演奏されていたようなものだった。もちろん、クロスオーバーをジャズと称して演奏する者にも、それなりの言い分や理屈があるだろう。いずれにせよ、わたしがジャズあるいは芝居に求めるものと彼らが与えてくれるものがあまりにかけ離れていたので、彼らの芝居および彼らとともに語られるような劇団にはそれ以後足を踏み入れることはなかった。
土方巽は間に合わなかったが、多かれ少なかれ彼から発している舞踏も幾つか見た。誰であったか名前は失念したが、舞踏家が十メートルくらいの距離を一時間ほどかけて移動する舞台があって、こういうのは他人の行を見せられているようでそれほど感興がわかなかった。山海塾もわたしには禁欲的かつ審美的すぎた。もともと微細な動きを緊張感をもって見守り続けることがわたしはあまり好きではないらしい。その点、麿赤児の大駱駝艦や大駱駝艦から分かれた白虎社(山海塾も大駱駝艦から派生したのだが)は楽しかった。特にこの両集団の場合、くだらないことをするときほど身体があるべき場所にぴったり収まるのが見事だった(かつて『タモリ倶楽部』で麿赤児が登場する体操のコーナーがあったが、ばかばかしい文句に乗せて動く身体の正確さには毎回驚かさ
れた)。モダン・ダンスはさほど見ていないが、ロバート・ウィルソン(音楽フィリップ・グラス)の『浜辺のアインシュタイン』やフランクフルト・バレエ団を率いたウィリアム・フォーサイスの公演などを覚えている。ダンスやバレーと舞踏は対照的で、跳躍による上方への志向においてダンスやバレーが際立っているのに対し、舞踏は地を抉るかのような動きにおいて優れていた(勝新太郎演ずる座頭市の、独楽のように地を這いずる殺陣を思い返してもらってもいいだろう)。
さて、頻繁に芝居に通っていた時期が二、三年だったことが確かなのは、劇場から遠ざかったきっかけがはっきりしているからである。少々面倒くさい病気にかかり、半年ほど入院したことが芝居から距離をとる原因となった。もともとどちらかというと閉所恐怖症の気味があり、人混みが苦手であったから、いったん熱が冷めてしまうと、もうもとの勢いを取り戻せなくなってしまったのだ。しかし、病気のあともいくつかの劇団に出会い、かつての熱気を取り戻せそうなきっかけは幾度かあった。そうした劇団をアトランダムにあげてみよう。
まず、維新派がある。先ほど述べたように、維新派は舞台装置を組み立てることが芝居の大きな要素であり、新橋の空き地に巨大なセットが建てられていた。1991年の『少年街』である。維新派は自分たちの芝居をジャンジャン☆オペラ(ジャンジャンというのは大阪新世界のジャンジャン横丁からきているらしい)と呼んでおり、銀幕少年王同様、芝居の部分と大阪弁で掛け詞や語呂合わせを大量に含んだ短い言葉の積み重ねを踊りながら歌う部分に分かれている。踊りも言葉と同じように、アクロバティックなものではなく、短く簡単な動作の積み重ねによって成り立っていた。舞台はノスタルジックな未来とでも言うべき空間で、そこで顔を白く塗った少年少女たちが壮大な仕掛けのなかを歌い踊る姿にわたしは圧倒された。すっかり興奮して、劇中音楽のカセットを買って帰ったのだが、肝心の歌が入っていないのにはがっかりした。それでも、数日間音楽とリズミックな歌の調子が取り憑いたように離れなかった。
興奮した芝居、熱狂した芝居、楽しんだ芝居と芝居の経験も様々だが、わけがわからないということで群を抜いていたのは東京乾電池のチェーホフ劇だった。面白かったかと言われると言葉に窮するが、それではつまらないかというとそうも言えない、ただただ困惑のなかに放置される体の芝居だったのだ。神西清の訳した脚本を、柄本明、ベンガル、綾田俊樹、角替和枝といった乾電池
の役者たちがまったく感情を交えないフラットな台詞回しで述べ立てる。アドリブなども一切なく、蛭子能収が人が真面目なことをしているとおかしくなってくる癖がでて、同意を求めるように周りの役者に笑いかけるのだが、誰一人として応じる者がないので、曖昧な表情のなかに笑いを紛らわすことが幾度か繰り返された。チェーホフに現代性を盛り込もうとするような特別な演出もなく(演出は柄本明)、早口の台詞だけが滔々と流れていくような芝居だった。とにかく不思議な時間だったと言うしかない。もっともこうした「実験」は一時的なものであったらしく、最近、劇団創立三十周年の「劇団東京乾電池祭り」の演目シェイクスピアの『夏の夜の夢』、小津安二郎の『長屋紳士録』をDVDで見る機会があったが、それなりに人情もあり、デフォルメによるおかしさもあり、こういってはなんだが、ごく普通に面白い芝居になっていた。
平田オリザの青年団を最初に見たときも、心を奪われた。1991年の『S高原から』をこまばアゴラ劇場という小さな小屋で見た。確かサナトリウムが舞台で、特になんということもない話を交わす。役者と観客の間に想定される第四の壁の扱いにおいて特異で、あたかも役者は観客が存在しないかのように振る舞い(お尻を向け続けることもある)、台詞は順々に受け渡されるものではなく、重なり合う。ロバート・アルトマンの映画のように複数の会話が同時に進行することもある。「静かな演劇」などと形容されることもある青年団だが、見ていて実にスリリングだった。
松本修を中心にしたMODEはこれまであげた劇団のなかでもっともソフィストケイトされた劇団だと言えるかもしれない。小道具などの舞台装置も、衣装も、音楽もシックでおしゃれだった。単に歩くことでさえ、この上なく楽しい演劇的行為になることを教えてくれたのがMODEだった。必ず演目のどこかで、役者たちが一列になって、そう、ちょうどスキップのようにアクセントをつけた歩き方で舞台を経めぐるのだが、それを見ただけでわたしは幸福感に満たされたものだった。この劇団に第三エロチカを退団して参加していたのが有薗芳記と深浦加奈子で、ここでの深浦加奈子は実にチャーミングでかつエレガントだった。大きく弧を描いて再び深浦加奈子に戻ったことでわたしの芝居の話もおしまいにする。
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