2014年2月8日土曜日

ブラッドリー『論理学』10

ブラッドリーの『論理学』は形而上学的論理学とでもいうもので、形式的、数学的、経験論的論理学とは一線を画している。

 §10.我々は論理的観念ということでなにを理解するべきか知ったので、以下の論述を先取りして、判断がそれをもってなにをするかについて簡単に独断的に述べてみよう。我々は、できる限り、心理学的形而上学的難点を避けなければならない。
 判断とは、(そのようなものとして認められた)観念的な内容を、判断という行為を越えたところにある実在に差し向ける行為である。これは実際よりもずっと厄介なことのように響く。

 観念的内容とは論理的観念で、定義された意味である。それはそのようなものとして認められたもので、それ自体は事実ではなく、さまよい歩く属性である。断定という行為において、我々はこの属性を現実の実在物に送りつけ、結びつける。そして、そのようにして打ち立てられた関係は、行為によってつくられたものでも、その内部や表面に貼りつけられたものでもなく、独立しそれを越えた実在である。

 例として、もう一度海竜をとるなら、我々はその観念はもつが、判断はもたない。それは存在するのか、ということから始めよう。「それが存在する」というのが事実上の真実なのか、単なる観念に過ぎないのか調べてみよう。このことから、「海竜は存在する」という判断に進むこととしよう。それを完遂するには、我々はこの上なにをするべきなのだろうか。答えはこうなる、海竜という賓辞によって現実の世界を性格づけ、その行為において、我々の行為がなくとも世界はそうした性格をもつことを認めることにある、と。判断の真理ということで我々が意味するのは、それが観念以上であり、事実であるか事実のうちにあるかである。もちろん、現実の賓辞として、観念が無制限に普遍的なのだと言おうとしているのではない。もし存在するなら、海竜はある限定された個物である。もし我々がすべての真実を知っているなら、正確にそれがいかに存在するかについて述べることができなければならない。夕方の薄闇のなかで、私がそれは四足動物だと言うなら、知覚にあらわれている現実を普遍的なもので性格づけるのだが、もちろん、現実の四足動物は四本の足と頭の他に多くの特徴を備えている。しかし、普遍的なものを主張しても、私は未知の特殊性を排除しようとしているわけではない。間違いによってある知識を無条件で絶対的だと主張したのでもない限り、部分的な無知が私の知識を誤ったものにする必然性はない。

 「三角形の内角の和は二直角に等しいか」、「疑わしい」、「肯定する」こうした例において我々は同じ観念内容を扱っている。示唆されている観念というのは、三角形の内角の和と二直角が等しいという関係である。そして、肯定や判断には、この観念が単なる観念ではなく、現実の性質なのだということが含まれている。この行為は、浮動する賓辞を世界の性質に結びつけ、同時に、それが既にそこにあったことを示している。続く個所で上述のことが明らかになることを願うが、そこで生じる形而上学的問題については議論せずに残しておかなければならない。

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