澁澤龍彦はスタイル偏重を公言し、「極度に人工的な」スタイルさえあれば、思想の当否や人間が描かれているかどうかなどは取るに足らない問題だと言って憚らなかった。ここで、スタイルというのは、単なる文体よりも広い概念を示す。
「極度に人工的」であるとは、日常生活とは隔絶された異なった秩序をもつ世界をつくりあげることであり、一つの世界を構築するには一貫した方向性と持続が必要となる。健康に気をつかった毎日の養生のように抑制による自己管理が中心になることではなく、積極的な造形意志に関わる問題なので、その内容はともかく身を律していく倫理的な姿勢が要求されよう。それかあらぬか、あれだけ「不道徳な」ことを生涯書き続けた澁澤龍彦だったが、自堕落なデカダンには鼻も引っかけなかった。
ところで、レミ・ド・グールモンのスタイルについての考え方はおよそ正反対の方向を向いていると言っていい。グールモンは、マラルメやヴェルレーヌのおよそ一回り下、ヴァレリーのおよそ一回り上の世代に属し、「象徴主義のサント=ブーブ」と呼ばれ、象徴主義運動を擁護した。象徴主義をマラルメとヴァレリーという系図のもとで捉えると、この二人の自意識の化け物が文を最高度に意識的なものたらしめようとしたのに対し、グールモンがスタイルを意識よりもむしろ無意識に近い場所に位置づけたのは興味深い。
グールモンによれば、人間の心的な活動のサイクルは次のような段階を経て進むと考えられる。まず始めに感覚がイメージに変化する。次に、イメージが観念に変わる。次に、観念が感情になる。最後に、感情が行動になって終わる。
そして、作家には二つの主要なタイプがある。明確なイメージを具体的に描くことのできる視覚的なタイプと、出来事がもたらす感情だけを捉え、出来事のそのものは抽象的にしか描くことのできない感情的なタイプである。
視覚的な作家、つまり、感覚とイメージを鮮明にもたらすことのできるものだけが真の芸術家と認められる。範とすべきは余計な観念によって出来事が歪められることのないホメロスの文章であり、もっぱら感情に訴えかけようとするユーゴーは非難される。哲学者で言えば、抽象的な精神にすべてが呑み込まれていくヘーゲルではなく、その思想を具体的なイメージで提示することのできたニーチェが称揚される。
といって、だからといって、我々はこうした模範を手本にすることはできない。なぜなら、感覚とイメージが観念を経ることなくスタイルにあらわれるとは、つまりスタイルと生理とが直結しているということであって、スタイルの問題とは生理学の問題に移り、意識的、理性的に処理できるような事柄ではなくなり、せいぜい我々にできることといっては、様々な経験を積むことによって感覚の領域を拡げることくらいしかないからである。
人は自分自身をスタイルによってあらわすことはない。その形式は脳の構造によって決定されており、そこから扱うべき事実を受け取るのである。
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