2014年2月13日木曜日

ブラッドリー『論理学』11

 第一章 判断の一般的性質の続き。

 §11.こうした判断の記述において、我々が同時に気がつく二つの点がある。読者は、我々が一つの観念、あるいは観念内容をもつ判断について語り、主語と繋辞についてはなんの言及もしていないことを認めるだろう。一方、もっとも行き渡っている教義というのは、我々は常に二つの観念をもち、その一つが主語だというものである。どちらの見方に対しても私は意見を異にせざるを得ない。第二章でこの問題を更に扱うが、ここでいくつかのことを述べておこう。 
 (i)あらゆる判断が二つの観念をもつというのは真実ではない。反対に、すべて一つしかもたないと言うことができる。我々は諸性質と諸関係の複雑な総体である観念内容を取り上げ、それからそれを分断区別し、その結果、関係をもつ異なった観念を得る。このことはまったく反論できない。しかし、反論可能であり、我々が否定するのは我々の精神の前にある全体が単純観念だということである。それは原理的に重大な誤りを含んでいる。観念間の関係はそれ自体観念である。心的事実の心的関係ではない。それはシンボルの間に存在するのではなく、シンボル化されたもののうちにある。それは意味の一部であって、存在の一部ではない。それが存在する全体は観念的であり、一つの観念である。 
 単純な例を挙げてみよう。我々は狼の観念をもち、それを一つの観念と呼ぶ。我々は狼が羊を食べているところを想像し、そこに二つ、三つ、あるいはそれ以上の観念が存在すると言う。しかし、この場面は一つの全体として与えられているのではないだろうか。恐らくそうではない。というのも、全体のなかには区別が存在し、そうしたグループ分けを我々はするものだからである。しかし、この道筋に従って進み、他の観念を含むあらゆる観念の単一性を否定するなら、狼自体も一つの観念ではなくなってしまう。それは数多くの属性の総合であり、結局の所、それ以上の区別を受けないような観念を見いだすことは我々にはできないだろう。どちらかを選ばねばならない。非常に単純で、それ以上のいかなる区別も受けないような性質の観念を除いては単純観念など存在せず、つまりは観念などまったく存在しない、と言うか、あるいは、精神が全体として受けとる内容は、どれほど大きくどれほど小さくとも、またどれだけ単純でどれだけ複雑であっても、一つの観念であり、その多様な関係はある統一のうちに包含されている、と言うかである。
 いかに複雑なものであっても、意味内容の間の関係は、心的存在の間ではいまだ関係ではないということに留意しないと、我々は常に間違った方向に行く。狼と羊がいる。狼は羊を食べるだろうか。狼は羊を食べる。我々はここで狼と羊の間に示唆され主張される関係をもつが、この関係は(こうした言葉を使うことができるなら)私の頭のなかの出来事を現実に繋ぐものではない。ここで意味されているのは、イメージの心的な連結のことではない。狼の観念が狼というイメージの全体ではなく、羊の観念が想像された羊ではないように、その総合された観念は私の想像に存在する関係ではない。私の意味がシンボル化された特殊な場面には、普遍的な観念のうちでは消え去り、考えられたり追求されたり、ましてやその存在が主張されたりはしない細部が存在する。
 同じことを繰り返すと、心像は記号であり、意味は全体の部分であり、その残りから、その存在から切り離されたものにすぎない。この観念内容においては、名詞、動詞、前置詞に応ずるように、性質と関係のグループがあり結合がある。しかし、こうした多様な要素は、それらを区分けする正当な権利はあるが、内容全体の外では妥当性を失ってしまうのである。あらゆる観念を含む一つの観念がある。どれだけ単純だろうが複雑だろうが、精神が一つのものとするならそれは一つの観念でしかない。しかし、もしそうなら、判断は二つの観念を繋ぐものだという古くからの迷信は捨て去るべきだろう。

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