第一巻判断、第一章判断の一般的性質の続き。
II.§13.判断についての誤った理論は自然に二つの種類に分けられ、一つは主語、述語、繋辞に対する迷信によって理論が損われるもので、他方は別の欠点による。二番目のものを最初に取り上げよう。
(i)判断は観念と感覚の連合でも観念や諸観念の勢いや強さでもない。これまで経てきたことを考えるなら、こうした考え方を詳細に調べる必要はない。彼らが語る観念は心的な出来事だが、判断は、既に見てきたように意味に関わる普遍的な観念内容であり、心的な事実でないのは確かである。我々にあるのが現象の関係、感覚と隣接あるいは結びついた心的イメージだけなら、どんな主張も否定も真や偽ももつことはできない。我々にあるのはそこにある、なにものもあらわさない現実だけであり、それは存在はしても真となる可能性はない。
我々は「連合」についての一般的な議論を先取りはせず(第二巻第二部第一章)、この学派がもつ普遍についての途方もない考え方に移ろう。すぐにその結論にたどり着くだろう。特殊なイメージという意味での観念があり、それはある仕方で感覚に結合し縛りつけられている。例えば、私は色のついた点々の感覚をもつ。動き、堅さ、重さのイメージがそうした感覚によって「呼びだされ」、それに結びつき一体となる。これは我々がある難点を呈示するまでは非常にうまくいっているように思える。一個のオレンジは我々に視覚的感覚を与え、我々はそれにいま述べたようなイメージをつけ加える。しかし、そのそれぞれのイメージは堅固な個物であり、他のあらゆるものを排除した関係によって性質づけられている。単にそれらの事実の束を連合するなら、誰がそれを一つの事実として認めるのだろうか。その内容を混合し、存在のことは無視して、それぞれの性質の一部をとり、それを対象に移すのだとしたら、その過程をなんと呼ぼうが勝手だが、それが連合ではないことは確かである。(以下、第二巻を見よ。)
観念がどのようにか感覚に結びついていると仮定したとしても、判断は、真や偽はどこにあるのだろうか。オレンジは私の感覚や想像の前にある。私の心にはそれは存在し、それで終りである。あるいは「シーザーは腹を立てるだろう」と言ったとする。シーザーはここでは知覚であり、それが性質づけられて「シーザーの立腹」となる。しかし、このイメージは単にそう存在するものであり、なにをあらわすわけではなく、なにも意味することができない。
まず「観念」が一つの事実として自律し、感覚の事実と心的な関係をもっていると仮定してみよう。二つの現象は、頭痛が三段論法と共存できるように共存している。しかし、そうした心的な結合は主張というには程遠い。ここに肯定は存在しない。肯定すべきなにがあるだろうか。二つの事実の関係を肯定するのだろうか。しかし、それは与えられたものであり、肯定するにしても否定するにしても意味がないだろう。一方の事実が他方の事実の賓辞となるのだろうか。それはまったく理解できないように思える。端的に言って、感覚と観念の双方が事実ならば、我々はなんの肯定も見いだせないばかりでなく、肯定すべきなにがあるのかさえ解らないだろう。
次に、(連合そのものはあきらめることとし)「観念」そのものは姿を消し、その不完全な内容が感覚のなかに溶け込んでいるのだと仮定してみよう。この場合、混合によって生みだされた全体は私の心に単体のあらわれとしてやってくる。しかし、どこに肯定が、真や偽があるのだろうか。ありのままのあらわれのうちにあるとは言うことができない。我々はこのあらわれと他のなにものかの関係のうちのどこかにそれを見いださねばならない。その関係が判断が指し示すものとなろう。しかし、いまのところは、その何ものかも判断が指し示すものも存在しない。我々が最初にもつのは変更されていない感覚、次に変更された感覚である。
先に進む唯一の道は、まず、「観念」が自律し、その内容と区別されると仮定する。次に、その両者が感覚と区別されると仮定することにある。すると、我々は感覚とイメージという二つの事実と、それ以外にイメージとは異なる内容をもつことになる。こうして我々は判断が可能になる条件にたどり着くことになるが、この条件への到達は連合によっては説明できない。またそれ以上の段階を考えることもできない。イメージから感覚への内容の移動と感覚の主語としての性質づけがあるが、そのどちらも説明することができないだろう。つけ加えるなら、どんな判断においても感覚を主語として役立てることは不可能である(以下の第二章を見よ)。最後に、私の行為が結びつけ、結びつけられる意識とは我々が考えているような心理学とは両立しない事実なのである。要約すれば、イメージの内容を変更されたあらわれのうちに溶け込ませることは判断に向けての一歩ではあるが、連合を離れることになる非常に大きな一歩でもある。心的現象の結合や統一は判断でないばかりでなく、その初歩的な基礎としても役に立たないだろう。
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