2014年2月27日木曜日

幸田露伴『七部集評釈』12

影法の暁寒く火を焚きて     芭蕉

 影法はいまでいう影法師で、略語ではない。何々坊というのはすべて人に擬していう言葉で、しわい(しみったれ)なのをしわん坊、けちなのをけちん坊、取られるものを取られん坊、取るものを取りん坊または取ろ坊、かたゐ(乞食)をかったゐ坊というのと同様である。 法は当て字で坊と同じで、影法は影坊であり、影法師の師の文字は添えることで生じたもので、孤独の「独り坊」を「ひとりぼっち」というときの「ち」のようなものである。貞享、元禄のころは、影法とも影法師とも言ったもので、いまのあり方で昔を疑ってはいけない。

 一句は葬儀の場に籠もった人が悲嘆で身も細るほどの暁に、衣服も薄く胸が氷りそうな夜明けのあり様をあらわして、すさまじく哀れな様子をよく言い取っている。旧註で、墓守の翁だというのはよくない、なき主に忠義の厚いものか、母親に孝行の思いが中々去らない子供であろう。前句とのかかりはいわなくとも理解すべきである。「消えぬ」という語に縁を引いて影法といったなどというのは間違いである。情景を描いて情があり、情を述べて景色があり、影法は明けようとする空に薄れて、卒塔婆は夜が遠くなっていくうちに白々と浮かびあがる、嘘寒く凍りつきそうな状況を見てとるべきである。肌を粟立たしめる一句であり、連句としては涙を誘う。詩は解釈するのではなく味わわねばならない。非人であるという旧解はとりがたい。

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